半坪ビオトープの日記

ボタン(牡丹)

中国北西部原産のボタンは、花王花神として古代より中国を代表する花である。隋の煬帝が進貢させて以来愛玩され、唐の時代には大流行した。長安では都中に花があふれ、白楽天などの詩人もこの花を詠んだという。
日本には天平時代(729〜749年)に渡来したとされ、平安時代には宮廷や寺院で観賞用に栽培された。「出雲風土記」では薬草「ふかみぐさ」として記され、「蜻蛉日記」や「枕草子」にも書かれ、「新古今」にはボタンを詠んだ歌が見られるが、万葉集古今集には姿を見せない。大徳寺、二条城、大覚寺日光東照宮など豪華な牡丹の絵が各所で見られるように、江戸時代には大流行し、元禄時代の「花壇地錦抄」には339種が紹介されている。ヨーロッパには1656年に中国のボタンが導入され、1844年にはシーボルトが日本のボタン42種を紹介し、1848年にオランダでそれが咲いた。
唐獅子と牡丹は室町時代頃から襖絵や屏風絵の画題によく取り上げられるが、中国の宗・元における「百獣の王」と「百花の王」の組み合わせに由来する。刺青の流行した江戸時代には、とび職や火消しがこの紋様を体に刻んだりした。
「立てば芍薬、すわれば牡丹」と俗にいわれるように、牡丹の美しさは妖麗な婦人のすわる姿にたとえられるが、ボタンは漢名の「牡丹」の音読みで、「丹」は赤を意味し、「牡」は雄のことである。中国の明の時代、赤い花がボタンの最高級品だったが、ボタンの実生は必ずしも親と同じ赤い花を咲かせるとは限らず、繁殖は株分けによらざるをえなかった。そこで「子供のできない(雄の)赤い花」ということでこの名が付いたといわれる。この写真は先週、東福寺で撮ったボタン。
俳句や短歌にもよく詠まれている。
戻りては灯で見る庵のぼたんかな  千代女
牡丹散ってうちかさなりぬ二三片  蕪村
内隠もるふかき牡丹のありやうは花ちり方に観きとつたえよ  北原白秋