半坪ビオトープの日記

ウメ(紅梅)

ツバキにはメジロヒヨドリがよく蜜を吸いに来るが、このウメにもヒヨドリが来ていて、紅梅と白梅の間を行ったりきたりしていた。
万葉集には約4500首の歌が集められているが、その約三分の一が植物と関わり、150種以上の植物が登場するといわれている。登場回数は数えた人により多少の誤差があるが、大体、ハギが141首、ウメが119首、サクラはとても少なく42首といわれる。
中国の湖北省四川省が原産地で、紀元前14世紀から12世紀の遺跡からウメの核が出土している。従来、700年ごろ遣唐使によってもたらされたと考えられていたが、弥生時代前期の綾羅木遺跡(山口県)などからウメの核が出土し、縄文時代の遺跡からは出土しないので、弥生時代に渡来したとすべきである。57年には倭奴国王が後漢光武帝印綬を受けたと伝えられるのだから、貢納のための交流も当然あっただろうし、もっと前に稲などと一緒に渡って来たかもしれない。
ともかく万葉集の時代には、開墾地によく生えるハギを別として、花といえばウメのことを指していたし、梅といえば白梅であった。平安時代になって、清少納言が「枕草子」の中で「木の花は濃きも薄きも紅梅」と記すように紅梅も好まれるようになった。でもその頃には既にウメよりサクラを愛でるようになっていた。つまり、弘仁三年(812年)には嵯峨天皇の勅命で、京都紫宸殿の左近の梅が桜に植えかえられ、905年の古今和歌集ではウメの歌が18首に対し、サクラは70首と逆転するまでになった。
漢名「梅」の毎はゆたかな髪を頭にのせた成人女性を描いた象形文字である。本来、毎(マイ)という言葉は「つぎつぎに生み出す」という意味を含んでいる。つまりウメは毎年、枝もたわわに結実し、女性が妊娠すると酸味がほしくなって出産を助け、子孫を繁栄させるめでたい木であると信じられ「梅」になったという。和名のウメは 1)漢名の梅を漢音ではmui、meiであるが、これを日本的に読んだ、 2)朝鮮語のマイに由来する、 3)烏梅(ウメイ)の音読みの三説がある。薬用としての烏梅の説が妥当と思う。
学名は Prunus mume で、シーボルト命名である。