半坪ビオトープの日記

松下村塾


萩市の中心部には萩城城下町があって旧藩校明倫館や武家屋敷などが集まっているが、幕末の志士を育んだ松下村塾は松本川を東に渡った旧松本村にあった。松下村塾の周りには今では松陰旧宅や松陰神社、記念館や歴史館、宝物殿至誠館などが取り囲んでいるが、それらは皆松陰神社の境内に含まれている。大鳥居をくぐると左手に、明治維新胎動之地の大きな石碑が建っている。昭和43年に明治維新百年を記念して建立された。

楓の木の下に松陰の歌碑がある。安政6年(1859)江戸小伝馬町の獄中から萩の父百合之助と叔父玉木文之進および兄杉梅太郎の三人に宛てた書簡「永訣の書」の中の歌で、両親に先立つ不孝を詫びる気持ちが込められている。
親思ふこゝろにまさる親こゝろ けふの音つれ何ときくらん 寅二郎
吉田松陰は、文政13年(1830)長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。幼名は虎之助、名は矩方(のりかた)。のちに大次郎・松次郎といい、最後は寅次郎と改めた。通称は寅二郎。松陰は幾つかある号の一つで、嘉永4年(1851)が初出である。二十一回猛士とも号した。

松陰神社の境内の真ん中に、国の史跡に指定されている松下村塾がある。吉田松陰が学び、講義もした私塾である。松陰の生家は微禄(26石)で半士半農だったが、山鹿流兵学の家柄である叔父の吉田大助の養子となった。天保6年(1835)病弱な大助の死去に伴って吉田家を継ぎ、大次郎を名乗る。父の末弟の玉木文之進に厳しく教育されたが、この文之進が松下村塾の開始者である。

松下村塾は木造瓦葺平屋建ての小舎で、玉木文之進天保13年(1842)に設立した当初からあった八畳の一室と、後に杉家の母屋を増築した十畳半の部分からなっている。文之進のあと、松陰の外叔・久保五郎左衛門が継承し、安政4年(1857)に藩校明倫館の塾頭を務めた松陰が引き継ぎ、翌年松陰が野山獄に再投獄され廃止された。

藩校明倫館が士分と認められたものしか入学できなかったのと対照的に、身分の隔てなく塾生を受け入れた。短期間だったが塾生は50名ほどいた。著名な門下生には、尊王攘夷、倒幕の全国志士の総元締の役割を果たした久坂玄瑞吉田稔麿入江九一寺島忠三郎、この人々が死んだ後を受けて藩論を倒幕にまとめ、征長の幕府軍を打ち破った高杉晋作がいた。高杉晋作久坂玄瑞は「識の高杉、才の久坂」と称され「松下村塾の双璧」と呼ばれた。また、この二人に吉田稔麿を入れて松陰門下の三秀といい、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称された。これら直門の高弟の衣鉢を継いで、末弟子の伊藤博文山県有朋品川弥二郎山田顕義らが明治政府の最高指導者を担った。

他の門下生には、萩の乱を起こした前原一誠や飯田俊徳、渡辺蒿蔵らがいる。桂小五郎木戸孝允)は塾生ではないものの、明倫館時代の松陰に教えを受けている。井上馨は高杉・久坂らと関わりは深いが松陰の教えを直接受けたことはない。講師には松陰の他に富永有隣がいる。塾は明治維新の後に復活し、明治25年まで存続した。

松下村塾の裏手に吉田松陰幽囚ノ旧宅がある。国指定の史跡で、木造瓦葺平屋建て214㎡、大小12室に板の間、物置、土間もあるかなり大きい建物である。

吉田松陰は、安政元年(1854)伊豆下田でアメリカ軍艦による海外密航を企てたが失敗して自首、江戸小伝馬町の牢に捕らえられ、ついで萩に送られ野山獄に入れられた。翌年釈放されたが、父杉百合之助預けとなり、この実家である杉家に帰され謹慎生活を送り、読書と著述に専念した。

松陰は家族からの薦めもあり、この3畳半の幽囚室で「孟子」や「武教全書」を講じるようになった。次第に多くの若者が参加するようになり、やがて松陰は松下村塾を主宰するようになった。安政5年(1858)7月には藩から家学教育の許可を受けたが再び幽閉され、翌年5月に江戸へ護送され、処刑された。