平城宮跡の調査で1961年に第1号の木簡が出土して以降、出土木簡の蓄積は続き、現在では30万点を保管するまでになっている。2017年には3,184点の「平城宮跡出土木簡」が、木簡として初めて国宝に指定された。平城宮跡資料館では毎年秋に「地下の正倉院展」という特別展を開催してさまざまな木簡を展示するほか、常設展示もしている。
研究室コーナーの木簡釈文も興味深い。一番左の「木簡の大きさ」で、長さ47mmの「小さな木簡」は「雉腊」(キジ肉の乾物)の付札。長さ1250mmの「大きな木簡」は氷室を造営する際に使用された木簡。深さ1丈(3m)などの氷室の規模や材料、年月日などが記されている。その右の「描かれた木簡」については次項で説明する。
さらに右手の上段「木簡のかたち」では、荷札に使われたさまざまな形の木簡が並ぶ。型式を18種類に分類している。左から031型式で伊豆国から鰹のなまり節の荷札。032型式で酒を入れた大きな甕(みか)の付札。051型式で「鷲取郷物部□万呂五斗」という米の荷札。鷲取郷は現在の岡崎市の地域。043型式で「封」北宮進上 津税使という手紙の木簡。封緘木簡は一枚の木材を二枚に割った間に紙の文書を挟んで封をしたもの。061型式で帳簿の題籤軸。細い部分に紙の文書を巻き、幅の広い部分に文書の題名を記す。ここでは「贄帳」とある。
右手中段には左から隠伎国からの海藻の荷札「杉の木簡」、文字が木目に直交する「横材木簡」、「木簡の削り屑」、「木簡の箱への再利用」。
右手下段には「その他の文字資料」として一番右に円形の「墨書土器」、中央に漆紙文書がある。「年号の入った木簡」も数多く出土し、一緒に出土した土器などの遺物の時代の手がかりとなることが多い。
木簡には様々な用途があり、その形状や文字の内容から目的を判別する。上段一番左の「お金の付札」の表には、「銭一貫」、裏には「畝火連大山 桧前主寸安麻呂 右二人検校」とある。2名の検校が検査した。その右手の「詩や歌」には、七言絶句の漢詩「山東□南落葉錦 巌上巌下白雲深 独対他郷菊花酒 破涙漸慰失侶心」。一人都を離れて秋の自然の中で失意を謳う。その右は門の鍵に付けていた「キーホルダー」で表に「東門いつ(金偏の溢)」裏に「東殿門いつ」。「いつ」とは昔の金の重量の単位なので意味不明。その右の「呼出し状」の表には「召急」の後に6名の名、裏には3名の名と年月日、呼び出す使者に食料と馬が与えられると記されている。その右は子を生んだ犬に米を支給した「支給証」。一番右が「通行手形」「依私故度不破関往本土 甲斐国 戸□□人□万呂□」。甲斐国へ帰る人の過所木簡。
「お金の付札」の下にある木簡(70)は、表に「駿河国駿河郡柏原郷小林里戸主大伴部首調荒堅魚七連」とあり、裏に「三節 天平七年十月」とある。駿河国から調として貢進された荒堅魚の荷札。その右の二条大路出土の木簡は、「美作国塗漆櫃」という漆塗りの櫃の付札。その右の内裏北外郭官衙出土の木簡の表には、「備前国児嶋郡賀茂郷」とあり、裏には「三家連乙公調塩一斗」とある。塩の貢進は三斗単位が普通だが、このような一斗(今の四升五合、約八リットル)や、二斗の例もある。その右(73)も同じ内裏北外郭官衙出土の木簡で、表には「肥後国益城郡調綿壱伯屯 四両 養老七年」とある。調の綿の荷札である。西海道(九州地方)の租税は基本的に太宰府に納められたが、天平一年(729)以降、都に納める例が見えるようになる。養老七年(723)はそれ以前だが、保管してあったものを送ったと考えられている。