半坪ビオトープの日記

瑞泉寺、山門、本堂

井波別院瑞泉寺、山門
井波別院瑞泉寺は、真宗大谷派の寺院で、真宗本廟東本願寺)を本山と仰ぐ。山号は杉谷山(さんこくさん)。明徳元年(1390本願寺5代・綽如上人により開かれた。永和年中(1375-79)綽如上人は杉谷の山中に草庵を結んで、宗祖親鸞聖人の教義を広めていた。当時、中国(明)から国書が朝廷へ送られてきたが、極めて難解なため、綽如上人が上洛して解読し、返書も認めた。天皇は大変喜ばれ褒美を与えるとともに、勅願所として寺院建立を勅許した。綽如上人は勧進状を作成し、加賀・越中・越後・信濃など6国から浄財を集め、瑞泉寺を建立した。伽藍は堅牢な石垣に囲まれている。山門は高さ17.4m、三間一戸の入母屋造、間口20.3m、奥行き15.5m、総欅造りの八脚二重門で、天明5年(1785)に再建工事を始め、文化6年(1809)に完成するまで24年費やした。最初は東本願寺の大工の棟梁・柴田新八郎が起工したが、その後、地元井波の大工・松井角平、柴田清右衛門、番匠屋七左衛門らが引き継いだ。山門の天井絵は、岸派絵師森間材により描かれた。

瑞泉寺、山門
山門は左右に山廊を持つ禅宗様式で、赤瓦による本瓦葺き。二層二階の桁と梁を支える組物が3段にわたって複雑な幾何学構造を棟の下で展開している。楼上には釈迦三尊の木像を安置している。

山門の「波に龍」の彫刻
山門正面の「波に龍(雲水一疋龍)」の彫刻は、京都彫刻師の前川三四郎に依頼し、京都から運ばれてきたという。その技術に感銘を受けて四人の井波大工が前川に弟子入りし、それが瑞泉寺が井波彫刻発祥の地とされる所以となった。明治12年、瑞泉寺が大火に見舞われた折、山門のこの「波に龍」の彫刻の龍が飛び出てきて、井戸の水を吹きかけ、山門を類焼から守ったという「昇龍伝説」が伝わっている。

中国の「八仙」の彫刻
虹梁上の蟇股に施された、中国の「八仙」と呼ばれる八人の仙人の彫刻は、井波の彫刻師の手によるものである。山門正面右側の彫刻は、左が琴高仙人、右が伯牙仙人。

中国の「八仙」の彫刻
中国民間伝承に登場する八仙とは、道教の仙人の中でも代表的な存在で、琴高・伯牙・王子喬・呂洞賓黄初平・張果・鉄拐・蝦蟇仙人の八人である。山門正面左側の彫刻は、左が王子喬仙人、右が呂洞賓仙人。

中国の「八仙」の彫刻
山門背面に向かって左側の彫刻は、左が黄初平仙人、右が張果仙人。

中国の「八仙」の彫刻
山門背面に向かって右側の彫刻は、左が鉄拐仙人、右が蝦蟇仙人。

本堂、太子堂
瑞泉寺は建立後、北陸の浄土真宗信仰の中心として多くの信者を集め、また越中一向一揆の重要拠点ともなった。加賀、越中能登一向宗寺院370余寺に号令できる格式を得て、文明13年(1481)には領主である越中福光城主・石黒光義と天台宗惣海寺の連合軍1千6百を破り、砺波地方一帯が瑞泉寺の影響下に入り、半自治体制が確立した。文明16年(1484)には城砦として改修して井波城と称し、永禄年間(1558-69)には一向宗徒を引き連れ上杉謙信とも戦っている。しかし、天正9年(1581佐々成政の焼き討ちにあい焼亡し、寛永19年(1642)に再建されたが、その後も宝暦12年(1762)、明治12年(1879)と大きな火災で三度建物が焼失した。山門をくぐると正面に本堂、その左手に太子堂が建っている。本堂は、明治18年(1885)に井波大工の棟梁・松井角平恒広を中心に再建された。本尊は阿弥陀如来、両脇壇には宗祖親鸞聖人御影と先門主御影があり、右余間壇には瑞泉寺建立を勅願された後小松天王尊牌が安置されている。

本堂
本堂は、井波建築、井波彫刻、井波塗師の優れた技を集めて再建され、入母屋造、銅板葺、平入、桁行25間(46m)、梁間23間半(43m)面積590坪(450畳)。全国4番目の大きさを誇る。

向拝などに井波彫刻

向拝などには精緻な井波彫刻が随所に施されている。本堂中央の唐狭間(欄間)には、迦陵頻伽の精緻な彫刻がある。

本堂の破風
太子堂から振り返ると、本堂の破風が見える。二重虹梁を支える大きな蟇股と両端の大瓶束が物々しいほどがっしりと装飾されている。懸魚も降り懸魚も大きいが、この本堂は北陸随一の大伽藍であるから当然であろう。

屋根を支える尾垂木
屋根を支える尾垂木は、龍の頭の丸彫りで装飾され、四方を睨んでいる。