半坪ビオトープの日記

稗田野神社、穴太寺

稗田野神社
亀岡市の西部、稗田野町佐伯に稗田野(ひえだの)神社がある。社伝によると、和銅2年(709丹波国守大神朝臣狛麻呂により、佐伯郷の産土神として創建されたという。本殿と拝殿の手前には舞殿が設けられている。

舞殿
鳥居を潜って境内に入ると舞殿・拝殿・本殿が連なり、舞殿が真っ先に目に入る。稗田野神社の特殊神事としては佐伯郷燈籠祭が有名である。かつて「宇治の県(あがた)は男が通う、男寝て待て女が通う、丹波佐伯郷(たんばさえき)の燈籠まつり」と呼ばれた女の夜這いの祭りであった。寛喜元年(1229)朝廷より賜った五基の神燈籠と台燈籠を中心に五穀豊穣祈願の祭りを斎行する。五基の神燈籠と神輿の追いかけっこ(燈籠追い)、神輿と大太鼓の掛け合い(太鼓掛け)など勇壮な神事と共に台燈籠で演じる串人形による人形浄瑠璃は、阿波の人形浄瑠璃よりも遥かに古い様式を持っている。徳川中期以降、丹波の大祭として全国に知られ、京都府や国の無形民俗文化財に指定されている。

拝殿と本殿

拝殿と本殿は、平成2年(1990)に江戸時代中期の社殿を全焼したため、平成4年に室町時代の簡素な様式に平成の趣を加えた様式の社殿に再建された。

本殿
本殿に祀られている祭神は、保食命、大山祗命、野椎命。保食命(うけもちのみこと)は、穀物の起源神で五穀豊穣、食を司る女神。伊勢の外宮に祀られる豊受大御神と異名同神である。野椎命(のづちのみこと)は、『古事記』で伊邪那岐伊邪那美による国生みの後の神生みの段で、風神、木神、山神(大山津見神)などとともに生まれ、大山津見神と共に土・霧・谷などの神々を生んだ女神。稗田野神社は延喜式神名帳にも記載がある式内社だが、すでに延暦21年(801)には稗田八幡宮と称することを許され神宮寺を建て釣鐘堂も完備していた。その後石清水八幡宮との関わりが深まり、橘本坊から別当が配置され真言宗別当寺となった。だが神宮寺は明治の廃仏毀釈により一夜のうちに廃止され、釣鐘も行方不明のままである。

京式八角石灯籠

左手の緑色の柵の中に、源義経が奉納したと伝わる京式八角石灯籠がある。鎌倉時代の作という。

癌封治瘤の木
樫の木は悪病を吸い取る霊の木という言い伝えがあり、樫の木のコブを撫でると悪病・難病を封じてくれるというので癌封治瘤の木として人気がある。

穴太寺、仁王門
亀岡市曽我部町にある穴太寺は、天台宗の寺院で、山号は菩提山という。穴太寺(あなおじ)は、「あなおおじ」「あのうじ」「あなおうじ」と読まれることもあり、「穴穂寺」「穴生寺」とも表記された。豪壮な仁王門は、三間一戸の八脚門。入母屋造、本瓦葺きで、17世紀中期頃の建立とされるが、柱に改造痕跡が多く見られ、狩野永納が延宝4年(1676)に描いた「穴太寺観音縁起絵巻」にある楼門の古材を利用した改築ではないかとの指摘もある。

穴太寺、本堂
宝徳2年(1450)成立の『穴太寺観音縁起』によれば、慶雲2年(705文武天皇の勅願により大伴古麻呂が開創したとされる。応仁の乱の戦火で伽藍が被害を受け、天正年間(1573-93)には明智光秀丹波攻めに巻き込まれて焼失した。17世紀中頃に行廣上人が再興した。享保13年(1728)に本堂が焼失するが、享保20年(1735)に再建され、今に至る。

本堂
本堂の内陣に鎌倉時代の作とされる木造釈迦涅槃像(なで仏)が安置されて布団がかけられており、自分の体の病のある部分と同じ箇所を触ると参拝者の病気が良くなると伝わる。本堂屋根裏より発見されたのは明治29年(1896)という。本尊は薬師如来だが絶対秘仏である。西国三十三所の札所本尊は聖観音秘仏)で、33年に一度のご開帳。身代わり観音とも呼ばれている。その霊験譚は「穴太寺観音縁起によると、平安時代中頃、曽我部郷の郡司宇治宮成は貪欲で評判が悪かった。しかし妻は信心篤く、京から仏師感世を招き聖観音を造立してもらった。お礼に愛馬を差し出したが惜しくなって、峠で感世を待ち伏せして弓矢で射殺し愛馬を取り返した。家に帰ると観音様には矢が刺さり、目から赤い涙を流していた。宮成は聖観音が身代わりになったことを悟り、自分の非を悔やみ、寺を建てて自分も仏門に入り観音様を祀ったという。その後千年ほど経て1968年に盗難に遭い、未だ行方不明。現在の像は昭和の名仏師・佐川定慶作だという。また、『今昔物語』や『扶桑略記』など古くから文献に登場し、安寿姫と厨子王丸の悲話伝説に関わる厨子王丸肌守本尊という小さな仏像も安置されている。本堂の扉は鎮守の道真公に因む寺紋「梅鉢紋」の窓になっている。広い向拝と吹き放しの外陣が特徴である。

円応院(本坊)
拝観受付は方丈と庫裏を兼ねた円応院(本坊)である。方丈と庫裏は延宝5年(1677)の再建である。庫裏の南側が方丈建築となっていて、本堂とは渡り廊下でつながっている。

障子越しに庭園を眺める
本坊より南側の池泉築山式庭園を障子越しに眺めることができる。

池泉築山式庭園
庭園は筑山を設け、石組みを配し、向こうには借景として、多宝塔が建っている。

池泉築山式庭園
庭園は江戸時代中期の作庭で、京都府の名勝に指定されている。

多宝塔
多宝塔は文化元年(1804)の再建である。三間の木造多宝塔で、柱は全て円柱になり、切石積みの基壇上に東面して建つ。塔は下重に二軒繁垂木、上重には二軒扇垂木と変化を持たせ、東西南北に四神の彫刻をはめる。さらに擬宝珠高欄を付した縁を巡らし、中央間格子戸、脇間連子窓。内部には四天柱、来迎壁があり、禅宗須弥壇には、釈迦如来多宝如来の二仏が安置されている。本堂と多宝塔は京都府有形文化財に指定されている。