半坪ビオトープの日記

眉山、阿波人形浄瑠璃


徳島駅の南西方向にある眉山は、徳島市の景観を代表する山で、どの方向から眺めても眉の姿に見えることからその名がついたといわれる。山麓には眉山天神社、瑞巌寺、明治期のポルトガルの外交官モラエスの墓がある潮音寺などの寺社があり、眉山ロープウェイの山麓駅を併設する阿波踊り会館も建っている。

阿波踊り会館には、阿波踊りの歴史や魅力を学べるミュージアム阿波踊り公演観賞や阿波踊り体験ができる阿波踊りホールなどがある。

市営の眉山ロープウェイに乗ると、山頂駅まで6分で眉山に上ることができる。「眉のごと雲居に見ゆる阿波の山」と万葉集にも詠まれた眉山徳島市のシンボルで、標高290mの山頂からは徳島市街はもとより、天気の良い日には淡路島、紀伊半島までもが一望できるという。眼下には日本三大暴れ川の一つとされ、四国三郎の異名を持つ、吉野川が流れ、河口近くの橋の向こうには淡路島が認められる。

眼下に広がる市街地の中心に見える森は、かつて徳島城があった標高61.7mの城山である。徳島駅はその手前にある。この後訪れる阿波十郎兵衛屋敷は吉野川河口の橋の向こう岸にある。

南東方向には、徳島市の三角州を形成している吉野川水系新町川が流れ、その右手(南)は小松島市に続いている。

山頂駅のすぐ上の広場にある「パゴダ」は、1958年に県ビルマ会が第2次世界大戦での戦没者の霊を慰めるために、平和を願って建てたものである。

眉山の裏手遠くに山並みが見えるが、眉山の南南西に剣山まで幾重にも連なる山並みで、中央に見える高い山は、標高972mの六郎山である。近くて大きく見えるが意外に低く、剣山はもっと右手遠くにある。

一番右端の山は1133mの高越山で、中央のやや尖った山が938mの焼山寺山。西日本第二の高峰、1955mの剣山はその左の雲の彼方にあるはずだが、残念ながら遠くて確認できない。

吉野川河口近くにある阿波十郎兵衛屋敷は、人形浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」ゆかりの板東十郎兵衛の屋敷跡である。板東十郎兵衛の築庭にかかる「鶴亀の庭」もあるが、ここは中庭で、「ととさんの名は・・・」の名台詞で知られる「お鶴とお弓」の別れの銅像が建っている。

昭和42年の全国調査では、人形芝居のための農村舞台の9割以上の208棟が徳島県に現存し、平成25年には88棟にまで減少したが舞台数は全国一である。今でも毎年10ヶ所前後の農村舞台で人形浄瑠璃の公演が行われている。この阿波十郎兵衛屋敷では、「傾城阿波の鳴門」をはじめ、国指定重要無形文化財「阿波人形浄瑠璃」を毎日上演している。

「傾城阿波の鳴門」は、1698年に罪状も明かされないまま藩の政策上の犠牲となって処刑された庄屋、板東十郎兵衛の名を借りて近松半二ら5人の合作によるお家騒動の物語で、1768年に初演されている。近松門左衛門が得意とした、男女の心中事件など当時の世界を描く「世話物」よりも、徳島では歴史的な素材を扱う「時代物」が好んで演じられた。この「傾城阿波の鳴門」は、母と娘の情愛をリアルに描き、阿波の人物が登場するので、徳島県では最も多く上演される外題である。

阿波藩のお家騒動に絡み盗まれた主君の刀を探すため、十郎兵衛と妻のお弓は娘のお鶴を祖母に預け、名を変え盗賊に身をやつし大阪に住む。そこへ巡礼姿のお鶴がはるばる阿波から父母を尋ねてくる。ここで名乗ってはお鶴に災いが及ぶと、涙をのんで別れるお弓。しかしお鶴の歌う巡礼かにたまらず後を追う。抑えられない母の情けが切ない「巡礼歌の段」が主に上演される。