半坪ビオトープの日記

ひめゆりの塔


ほかに主な南部戦跡は、ひめゆりの塔と旧海軍司令部跡があるが、時間の都合でひめゆりの塔だけ訪れた。ひめゆりの塔とは、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑のことで、その名は当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊に因んでいる。
外科壕と慰霊碑の他にも敷地内には、歌碑など様々な石碑がいくつも立てられている。

入口すぐ右手には、儀間真一顕彰碑が立っている。読谷村出身ハワイ二世ハーリー・シンイチ・ギマ(1917-86)は、ひめゆりの塔のある私有地2千坪を寄贈した人で、1992年ひめゆり同窓会により顕彰碑が立てられた。

儀間真一顕彰碑の向かい側に、第三外科壕とは別の壕があった。本島南部に多く見られる自然洞窟は沖縄では「ガマ」と呼ばれ、沖縄戦では住民や日本兵の避難場所としてあるいは野戦病院として利用された。1945年4月1日、米軍は読谷村の西海岸から本島へ上陸したが、翌2日、チビチリガマへ避難していた住民約140名中、83名が集団自決したことがよく知られているが、その内約6割が18歳以下だったという。この壕はチビチリガマほど大きくないが、このような壕はあちこちに散見され、全てが避難壕だったわけではない。

ひめゆりの塔の敷地に入ってすぐに「ひめゆりの塔の記」という由来を記した石碑がある。昭和20年3月、米軍の艦砲射撃が始まると、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高女の職員生徒297名は軍命によって南風原陸軍病院の勤務についた。戦闘激化により南へ移動し、第三外科はここひめゆりの塔の壕にあった。看護隊は6月18日に陸軍病院から解散を命じられたが、第三外科壕は米軍の襲撃を受け地獄絵図と化し、奇跡的に生き残った5名を除き職員生徒42名は岩に枕を並べた。軍医・兵・看護婦等29名、民間人6名も運命を共にした。その他の壕の職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中を彷徨い、南端の断崖に追い詰められて多く消息を絶った。南風原陸軍病院に勤務した全生徒の2/3がこうして最後を遂げた。戦後、職員16名、生徒200名の戦没者を合祀し、ひめゆりの塔が建てられ、平和の原点とされたと記され、1975年にこの碑が建てられた。

塔の記のすぐ先右手に、苔むした「井伊文子の歌碑」がある。「ひめゆりいしぶみ深くぬかづけば たいらぎをこいのむ おとめらの声す」。
井伊文子は尚昌の子女で、琉球国王尚康の曾孫。佐々木信綱のもとで短歌を学んだ歌人井伊直弼の孫にあたる、元彦根市長・井伊直愛と結婚している。

いよいよ「ひめゆりの塔」の正面に至る。大きな第三外科壕の右手に1946年に建立された小さな「ひめゆりの塔」の石碑が立ち、壕の背後には1957年に建立された大きな慰霊碑が安置されている。慰霊碑の後ろには1948年に建立された納骨堂がある。慰霊碑には学徒戦没者の名前が刻まれ、女師・一高女のシンボルである百合のレリーフが手向けられ、2009年に改修されている。「ひめゆりの塔」の名称は、当時第三外科壕に従軍していたひめゆり学徒隊に因んでいる。「ひめゆり」は、沖縄県立第一高女の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記されるようになった。

伊原第三外科壕は自然洞窟(ガマ)を利用したもので、1945年6月19日朝、壕にいた96名(うち教師5名、学徒46名)のうち80数名が米軍の襲撃で死亡した。生存者のうち壕脱出後に3名が亡くなり、沖縄戦終結まで生き残ったのは5名(うち学徒4名)のみであった。

ひめゆりの塔のすぐ右手前にもいくつか石碑が建っている。右の高い石碑は「沖縄戦殉職医療人之碑」で約50名を合祀して、昭和26年に建てられている。左の小さい碑は「陸軍病院第三外科職員之碑」で、29柱が祀られ、昭和45年に建てられている。

ひめゆりの塔の手前左側に大きなガジュマルの木が多数の気根を垂らしている。第三外科壕が米軍から襲撃された戦争時にはこの辺り一帯は焼け野原だったとされる。この大きなガジュマルは戦後に植えられたものという。

ひめゆりの塔」の慰霊碑と納骨堂の左手に、「いはまくら碑」が建てられている。この碑は、学徒隊引率教諭であった仲宗根政善氏が、第1回ひめゆりの塔慰霊祭(1946.4.7)で、戦死した教え子を悼み霊前に捧げた歌の碑である。「いはまくら かたくもあらん やすらかに ねむれぞといのる まなびのともは」

「いはまくら碑」の左を進むと、ひめゆり平和祈念資料館が建っている。1989年、沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会によって開館された。ひめゆり学徒の遺品、写真、生存者の証言映像、南風原陸軍病院壕の一部や伊原第三外科壕内部を再現したジオラマなどが見学できる。