半坪ビオトープの日記

函館、五稜郭


銀婚湯から函館の五稜郭を目指す。五稜郭は江戸時代末期に江戸幕府により蝦夷地の箱館郊外に建造された稜堡式の城郭である。昭和34年(1964)、五稜郭築城100年を記念して高さ60mの五稜郭タワーが開業した。平成18年(2006)には高さ107mの新タワーに改築されている。高さ約90mの展望台は2層からなり、約500人が収容可能で、函館市内を一望できる。

大正3年(1914)から五稜郭公園として開放された際、10年かけて約1万本のソメイヨシノが植樹され、現在では約1600本が花を咲かせ、北海道有数の花見の名所となっている。正面から入園して一の橋を渡りきった右手の土手にある桜が、周囲に遮るものがなく、とりわけ見栄えがするといわれる。今年はちょうどGWに満開で、たくさんの花見客が五稜郭公園を訪れていた。

二の橋を渡って五稜郭に入るとすぐ左手に、武田斐三郎の顕彰碑がある。武田斐三郎は、緒方洪庵佐久間象山らから洋学などを学び、徳川幕府の命を受けて洋式城郭の五稜郭を設計し、元治元年(1864)に完成させた。顕彰碑は昭和34年(1964)、五稜郭築城100年を記念して建てられた。

安政元年(1854)の日米和親条約による箱館の開港当時、奉行所函館山の麓にあり、箱館の港と町を一望できたが、外国軍艦から格好の標的にもなるため移転が検討された。移転先の役所を囲む土塁が亀田御役所土塁すなわち五稜郭である。五稜郭での箱館奉行所は幕府の北方政策の拠点となった。その後まもなく、慶応3年(1867)の大政奉還により明治政府が奉行所の業務を引き継ぎ、名称は箱館裁判所・箱館府となった。しかし、江戸開城に納得しない榎本武揚らは蝦夷共和国の樹立を目指して北海道に上陸し、五稜郭の占拠を成し遂げるも、新政府軍の反撃に屈し、明治2年(1869)5月に五稜郭を明け渡した。箱館戦争後、大半の建物が解体されたものの、白壁の土蔵「兵糧庫」は難を逃れ、箱館奉行所は平成22年(2010)に復元公開された。屋根の上にあるのは太鼓櫓である。

奉行所の館内には、大広間や表座敷などを忠実に再現した再現ゾーン、五稜郭奉行所の歴史を解説する歴史発見ゾーンなどがある。玄関のすぐ右奥にある使者の間には、榎本武揚の書(複製)が掲げられている。右の書「入室但清風」は、戊辰戦争終結後、土方歳三の甥が歳三の戦死の状況を聞きたく榎本武揚を訪ねた際、故人を偲び書き上げた書で、原本は土方歳三資料館(東京都日野市)にある。左の掛け軸の詩書は、榎本武揚箱館戦争に敗れ、東京に護送される際の心境を詠んだもので、「健武帯刀前後行 籃輿羅網失窓明 山河百戦恍如夢 獨仰皇裁向玉城」とある。

次は大広間。四之間から三之間、弐之間、壹之間を眺めたところ。4部屋で72畳。突き当たりの壹之間は箱館奉行が接見に使用した部屋で、1968年、ここで幕府から明治政府への引き継ぎが、最後の箱館奉行・杉浦兵庫頭誠と明治政府の総督清水谷公考との間で執り行われた。床の間には2人目の箱館奉行堀織部正利煕の書が掛けられている。

壹之間の裏手の武器置所を経て再奥にある表座敷は、奉行所の中で最も格式の高い執務室である。本来はこの奥に奥座敷があったが、復元は表座敷までである。床の間の掛け軸は最後の箱館奉行・杉浦兵庫頭誠の江差詩書である。「港門布葉数千船 三里漁場一様羶 巨利網来人意湧 煙波萬頃是良田 驚看水面悉青鱗 男女三千簇海濱 一港民家餘老弱 俳優歌妓亦漁人」

歴史発見ゾーンでは、陶磁器や生活用具など奉行所跡地からの発掘品が多数展示されている。左奥のコンブラ瓶は長崎波佐見産の輸出専用品でありほかにもヨーロッパ産のワイン瓶・ビール瓶もまとまって出土している。

函館戦争に関わる資料もたくさん展示されている。この銃は戊辰戦争時に大量に輸入された先込め式歩兵銃の一種、エンフィールド銃である。

五稜郭公園は桜の名所としても有名で、奉行所の裏手の広場にもソメイヨシノの古木が満開に咲き誇っている。

さらに周囲を巡る石垣の上にも桜の木が多く植えられているので、そこから函館市内を見晴らすこともできる。

箱館奉行所の正面には、いくつか建物が並んでいる。右から土蔵、板庫、兵糧庫である。土蔵の兵糧庫は、五稜郭の築造当時の建物としては唯一現存している建物である。