半坪ビオトープの日記

高原熊野神社、龍神温泉


世界遺産熊野古道で一躍脚光をあびるようになった中辺路に沿って、本宮大社から西に進み高原熊野神社に向かった。古来より多くの参詣者が歩いた中辺路は、熊野の山里をたどる山岳道で、途中から国道311号線と付かず離れず並行するけれども、数ある九十九王子を車で訪れるのは難しい。国道から細い道をくねくねと10分ほど上り詰めると、江戸時代まで旅籠が軒を連ねていたという高原集落にたどり着く。ここからは遠くの山々まで見渡せ、見晴らしがすこぶる良い。標高が330m前後のこの周辺は「霧の郷高原」と呼ばれ、休憩所や展望台があり、特に早朝は霧が美しいという。展望台の正面には焼尾山(450m)が全容を見せて横たわり、その右手奥には笠塔山(1049m)が高さを誇り、その右手彼方には奈良県との県境沿いに位置する果無山脈がかすかに認められる。

高原熊野神社鎮座地の高原は、富田川左岸の尾根上に位置する集落で、資料上では平安時代の『中右記』天仁2年(1109)に初出し、『明月記』所収「熊野道之間愚記」建仁元年(1201)には高原の情景の歌が詠まれた。駐車場に車を置き、高原熊野神社の道標の右を歩いて上がっていくと神社の境内に着く。

足利義満側室の北野殿一行の『熊野詣日記』応永34年(1427)には、往復とも当地に宿をとったとある。境内入り口の角には、小さな庚申塔が建てられている。

高原熊野神社は高原地区の産土神で、九十九王子には入らないが、滝尻王子に近い不寝王子と大門王子の間に位置する。狭い境内だが、3本特別に大きな楠の巨樹がある。社殿の右手に立つ神木の大楠は、幹周7.35m、樹高20mである。一番太い巨樹は、幹周10.35m、樹高18mである。
明治の神仏分離令と神社合祀令は熊野に深い傷跡を残した。特に明治39年に施行された1町村1社を原則とする神社合祀令は、明治政府が記紀神話延喜式神名帳に記載のない神々を廃滅して神道純化を図ったものだが、熊野信仰のような古来の自然崇拝に仏教や修験道が混交した宗教は、合祀や廃社の対象になりやすく、中辺路の近露王子や湯川王子の古木も伐採された。田辺市に住んでいた世界的博物学者の南方熊楠は、神社の森を守るため神社合祀反対運動に立ち上がり、柳田國男などの文化人を動かし、とうとう神社合祀廃止にこぎつけた。そしてこの高原神社の大楠も伐採を免れたという。

高原熊野神社は、応永9年(1402)熊野本宮から熊野権現を勧請したといい、江戸時代は熊野権現と称し、明治元年熊野神社と改称した。

主祭神として速玉男命を祀り、ほかに天照大神素戔嗚尊を祀る。神体とされる懸仏の裏面には、応永10年(1403)の墨書銘があり、若王子を熊野本宮から勧請したことが記されている。

天文元年(1532)造替とされる本殿は、春日造・桧皮葺で、古道に沿う歴史ある神社のなかで最も古い建物であり、県の指定文化財である。後世に修復されているが、軸部と内陣の宮殿(厨子)は室町時代前期の様式をとどめている。桁行一間五分、梁行二間五分で、平成10年に社殿が改修され、柱や虹梁上の蟇股、さらに壁に至るまで、あまり類例を見ない色鮮やかな絵模様が施されている。 

本殿の右手に拝殿らしき建物があり、大山祗神猿田彦神、金毘羅神、地主神、天神、稲荷神が祀られている。

滝尻王子の手前で中辺路から右(北)に曲がり、龍神街道を遡って田辺市最北部の山間にある龍神温泉に向かう。龍神温泉は、江戸時代初期に紀州藩徳川頼宣の庇護下で大きく発展し、今でも江戸時代から続く上御殿・下御殿などと称する旅館がある。これが最も古そうな上御殿である。

上御殿は、明暦3年(1657)に徳川頼宣龍神温泉へ湯治に訪れるために建てられた宿であり、龍神家は宿の管理を命ぜられ、上御殿の屋号をもらった。現在の当主は源三位頼政の五男である頼氏より数えて29代目で、820年続く上御殿の歴史を今も受け継いでいるという。

建物は国の有形文化財に登録され、徳川公が泊まった「御成りの間」も、現在でも当時のままの形で残っているという。宿泊客がいるようだったので、パンフの切り抜きを載せる。

龍神温泉日高川の渓流沿いに位置する温泉で、役行者小角が発見したと伝わる1300年の伝統を誇る古湯で、龍神の名の由来は弘法大師難陀龍王のお告げにより開湯したことにあるという。泉質はナトリウム炭酸水素塩泉(重曹泉)で、肌がつるつる、しっとりとなり、島根県湯の川温泉群馬県の川中温泉と並び、日本三美人の湯として知られる。隣の下御殿には、川沿いに混浴露天風呂があるという。