半坪ビオトープの日記

徐福公園


須賀神社から南に300mほどの所、新宮駅のすぐ東に徐福公園がある。元来この地には徐福のものとする墓があったが、平成6年(1994)にその墓を中心にきらびやかな中国風の楼門を設置するなどして公園として整備された。楼門の瓦は台湾で製造されたものを使用している。

公園に入りまず目につくのは徐福像である。高さ1.9m、重量1.5トンの御影石でできている。右手の不老の池とともに平成9年に作られたもので、不老の池では七重臣を象徴して7本の石柱があり、7匹の鯉が飼われている。石柱には七重臣が有していた七つの徳、「和、仁、慈、勇、財、調、壮」が刻まれている。

この由緒板は、徐福公園の完成を記念して中国山東省龍口市より平成6年に寄贈されたもので、徐福についての説明と上陸の絵が刻まれている。縦1.6m、横3.2mで、大理石でできている。

これが徐福の墓である。徐福は中国秦朝の道教方士、神仙思想の行者である。秦の始皇帝の命を受けて3,000人の童男童女と百工を従え、五穀の種を持ち、不老不死の薬を探しに東方に船出して戻らなかったという。徐福の出港地については現在の山東省から浙江省にかけて諸説あり、河北省秦皇島、浙江省寧波市慈渓市が有力とされるが、一般的には伝説上の人物とされる。
その徐福が上陸したとされる地は、青森県から鹿児島県まで各地にあり、この新宮市のほか三重県熊野市、鹿児島県いちき串木野市などが有名である。熊野市波田須では2,200年前の中国の通貨である半両銭が発見され、徐福ノ宮では徐福が持参したというすり鉢をご神体としている。

徐福の墓碑は二段の台石の上に建ち、高さ1.4m、幅0.5mの緑色片岩でできている。墓碑は紀州藩徳川頼宣が儒臣の李梅溪に書かせたもので、元文元年(1736)の建立である。

徐福の墓碑の左側に徐福の顕彰碑が建っている。高さ2.5m、幅1mの黒色縞状石灰岩に刻まれている。

天保5年(1834)藩命により紀州藩儒者仁井田好古の撰・書により顕彰碑が造られたが、海路輸送中台風で沈んだ。その後、残された書により昭和15年(1940)ようやく建立された。

徐福の墓碑の右には七塚の碑が建ち、さらにその右には絶海と太祖の詩碑が建てられている。

七塚の碑は高さ1m、幅48cm、緑色片岩の自然石。徐福の重臣七人を祀るもので、大正5年(1915)に建立された。その右の絶海と太祖の碑は高さ90cm、幅1.24mの御影石に詩文が刻まれ、昭和41年(1966)に建立された。応安2年(1368)入明した禅僧・絶海中津が、南朝天珠2年(北朝永和2年、1376)に太祖(洪武帝)に謁見した際、熊野の徐福詞とその帰郷についてやりとりし、詩を吟じあったという。

不老不死の霊薬を求めて渡来した徐福一行は、熊野に自生する「天台烏薬」という薬木を発見したが、気候温暖・風光明媚のこの地を永住の地と定め、土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すき等の技術をこの地に伝えたという。天台烏薬(てんだいうやく、Lindera strychnifolia)は、クスノキ科クロモジ属の常緑低木で、享保年間(1716~36)に中国から渡来し、近畿・四国・九州地方に野生化していて、根が漢方薬に使われる。徐福が持ち込んだという言い伝えもあるが、年代は合わない。公園内にも天台烏薬が植えられている。新宮市では徐福伝説にちなむ天台烏薬を昭和57年から栽培し始め、現在ではその数10万本以上に達し、年間600kgの生薬を生産しているという。

熊野速玉大社の手前(東)、阿須賀神社のすぐ西に丹鶴城跡がある。この丹鶴山には元々、熊野別当家の嫡流である新宮別当家の別邸や、平安時代末期の大治5年(1130)に源為義の女「たつたはらの女房(別名、熊野鳥居禅尼)」が夫の熊野別当行範の死後、その冥福を祈るために創建した東仙寺や、速玉大社の神宮寺であった崗輪寺などがあった。慶長5年(1600)浅野幸長甲斐国から紀伊国に入り、翌年、幸長の2男忠吉が新宮に入り、東仙寺や崗輪寺を他所に移し、元和5年(1619)に丹鶴城を築いた。その後、明治4年の廃藩置県により廃城となった。