半坪ビオトープの日記

おかげ横丁、おはらい町


内宮から出て、宇治橋五十鈴川を渡った右側(北)に伸びるおはらい町と呼ばれる門前町は、古くから参拝客で賑わい、江戸時代に流行したおかげ参りの雰囲気が味わえる。お蔭参りとは、お蔭詣でとも呼ぶが、数百万人規模のものがおよそ60年周期で3回起こった。奉公人などが主人に無断で、あるいは子どもが親に無断で参詣したため、お伊勢参りで抜け参りとも呼ばれるが、信心の旅ということで沿道の施しを受けられた時期でもあった。江戸からは片道15日間かけて歩いて参拝した。
江戸時代のお蔭参りの賑わいを再現したのが、門前町のおはらい町の中程にある「おかげ横丁」である。おかげ横丁で唯一の有料施設である「おかげ座」は、歴史館とテーマ館の2館からなる芝居小屋風の建物で、江戸時代のおかげ参りを映像と模型で今に伝えている。遊び心の溢れる演出がなされ、人気を集めている。

おかげ横丁からおはらい町を横切ると五十鈴川にかかる新橋に出る。宇治橋から北へ約800mも続くおはらい町は、五十鈴川の左手に沿って猿田彦神社の手前まで伸びているが、五十鈴川下流の浦田橋までの護岸をのんびりと散策する人が多く見られる。浦田橋の右手の森は五十鈴公園となっている。

江戸時代になると伊勢講で代表者が参拝する仕組みもできたが、外宮の御師が産業の大神である豊受大御神大麻を農民に領布し、伊勢暦を配布し、神宮参拝の手引きを引き受けたことがお蔭参りの流行のきっかけである。御師は自ら経営する宿に参拝者を泊めて、豪勢な料理や歌舞でもてなし、参拝の作法を教え、名所や歓楽街案内の便宜も図った。

江戸時代には参拝客が年間200~400万人も押し寄せ、神宮の鳥居前町としておはらい町(お祓い町)は栄えた。しかし、戦後の1970年代には、参拝客が500万人でもおはらい町に寄る観光客は20万人に落ち込んだ。参拝後に鳥羽や奥志摩へ行く客が増えたためである。寂れた伊勢の門前町を復興させようと立ち上がったのが、伊勢名物「赤福餅」で知られる赤福だった。赤福社長が中心となって伊勢の伝統的な街並みを10年かけて蘇らせた。さらに平成5年には南北に伸びるおはらい町の中程に、おかげ座を中心とする約4000坪のおかげ横丁を完成させ、平成14年(2002)には年間300万人の集客を達成した。

おはらい町とおかげ横丁の交差点には、門前町復興の立役者である赤福の本店と別店が向かい合っている。しかし、順調に見えた矢先の2007年、赤福の偽装事件が発覚し大きな波紋を呼び営業自粛を余儀なくされた。その後、おはらい町とおかげ横丁の賑わいも回復し、2013年には過去最高の655万人の集客を達成している。

おかげ横丁にも伊勢名物の食べ物屋や土産物屋がたくさんあるが、おはらい町通りの南側にも伊勢うどんや松坂牛串の店がずらりと並んでいる。

おはらい町通りを南に進むと、内宮まで切妻、妻入りの木造建築が延々と続く商店街に、酒店もいくつか見つけられた。おはらい町とおかげ横丁は、伊勢神宮の参拝帰りに立ち寄るにはもってこいの門前町である。

おはらい町通りの北を眺めると、こちらにも切妻、妻入りの商店が並んでいて往時の雰囲気を醸し出している。

おはらい町通りを北に進むと右側には神宮道場があり、左側には豪壮な門と塀に囲まれた祭主職舎がある。

祭主職舎の向かいには、名物「元祖かわあげ君」という鶏皮の唐揚げ店がある。

その少し先には、しらすや牡蠣の佃煮が自慢の鳥羽答志島浜与本店という店もある。