半坪ビオトープの日記

多賀大社、奥書院


多賀大社の社殿は、元和元年(1615)に焼失したが、寛永10年(1633)に徳川家光が再建を命じ、5年後に完成した。ところが安永2年(1733)、天明2年(1782)にも火災に遭い、寛政3年(1791)には暴風で社殿が倒壊した。だがその都度彦根藩及び幕府から手厚い寄進・寄付が行われた。昭和5年(1930)に本殿を改修、平成14年(2002)から平成の大造営を行った。拝殿から右手には東袖回廊が伸びている。

拝殿から左手にも西袖回廊が伸びている。その回廊は神符授与所に連なり、その奥の社務所から奥書院や参集殿に向かうことができる。

奥書院へ通じる廊下には、数々の有名人の参拝絵馬が展示されている。これは作家の司馬遼太郎の絵馬である。

こちらは歌人の前川佐美雄の絵馬である。読みづらいが、「をもふ日の記憶よみがへる太鼓橋 いま孫抱きてその橋のぼる」と書かれているのだろう。

奥書院の入り口には、豊臣秀吉の祈願文が掲示されている。母の延命を祈願し、病気平癒のお礼に1万石を奉納した経緯が書かれている。この奉納によって、奥書院と庭園も造られたという。

奥書院は一重寄棟造で、鶴の間・歌仙の間や茶室・脇の間などから成り立っている。きらびやかな金箔に彩られた豪華絢爛な奥書院の襖絵は、室町時代から江戸時代にかけて一世を風靡した狩野派の筆によるとされるが、残念ながら作者は不明である。

これらの襖絵はもともと多賀大社別当寺(神宮寺)であった天台宗不動院の大書院にあったもので、安永2年(1773)の大火で大書院が焼失した際にも持ち出されて無事だった。秀麗な富士山と箱根の山の手前には白い鶴が群れている。左手脇にカラスが見えるが、三羽カラスの図柄は襖絵には珍しい。全国の熊野神社では烏が神使とされているし、多賀大社でも神前に献饌する前に米飯を烏に与える先食行事があるなど、そもそも神社では昔から烏は馴染み深い鳥だが、書院に描かれているのはほとんど見かけない。

今も残る安永3年(1774)に再建された奥書院は、何度も火災などの災難に見舞われた多賀大社にある建物の中で最も古い建造物であり、建物は県の有形文化財に、また襖絵は多賀町文化財に指定されている。

書院の廊下から眺められるように、池泉鑑賞式の庭園が作庭されている。バランスよく配された大小の自然石の石組護岸に囲まれた心字池には、左右に鶴島・亀島が浮かび、中央には不動三尊石が立ち、右隅には枯滝があり、その下には石橋が渡されている。
手前の入り口に近い西側は「鶴」と呼ばれる。

奥の東側は「亀」と呼ばれている。庭の奥の築山の後ろには太田川の清らかな水が流れている。こぢんまりとした庭園だが、鮮やかな苔の緑との対照が美しく、国の名勝というに相応しい。