半坪ビオトープの日記

子規堂


愛媛県に入り、愛南町市場食堂でカツオの刺身を食べた後、ひたすら松山市に向かった。ところが松山城周辺の駐車場はどこも満杯なので、松山城見学は諦めざるを得なかった。かわりに子規堂を見学した。子規堂は、正岡家の菩提寺である正宗寺(しょうじゅうじ)境内に建っている。正宗寺は正宗禅寺ともいうように臨済宗妙心寺派で、本堂には横綱千代の富士の奉納額と記念碑が掲げられている。

子規堂は、正岡子規の文学仲間であった正宗寺の住職・仏海禅師が子規の業績を記念し、子規が17歳まで過ごした住居を境内内に復元した文学資料館である。

子規堂正面には子規の「旅立ち」の銅像があり、子規堂内部には子規の遺墨や遺品が数多く展示されている。

この3畳の小部屋は、子規が松山中学に入ってから増築してもらった勉強部屋で、天井もない粗末なものだった。この部屋で作った文章には、13歳の時には雅号を「櫻亭仙人」、14歳では「老櫻漁夫」、15歳では「香雲散人」と、庭の桜の老樹の影響で「櫻」に因んだ雅号を用いていた。因みに子規という雅号は明治22年からである。

子規の本名は正岡常規。慶応3年松山市に生まれ、明治35年36歳で死去した。子規17歳、日本に入ってきたベースボールを幼名から升(のぼる)と野の球とを掛け合わせて野球という言葉を作ったといわれ、やがて松山の地に初めて野球を伝えた。明治25年日本新聞社に入社、日清戦争に従軍記者で活躍、28年東京時代の学友であった夏目漱石が松山中学の教壇に立っていた。漱石の下宿・愚陀仏庵に子規が同居し、この時松山の新派俳句は興ったといわれる。新聞「日本」の俳句雑誌「ホトトギス」等によって、子規は日本新派俳句を全国に普及させた。また、叙事文、写生文を提唱し、当時の小説家達に影響を与えた。

子規堂の左手には、大きな「正岡子規之碑」が建っている。昭和19年に建立、翌年空襲により破損、昭和27年に再建された。碑文には「元禄乃芭蕉天明の蕪村明治乃子規として俳句道の三聖と仰ぎみらる子規居士は・・・」とある。

そのすぐ左の正宗寺墓地入口には、高浜虚子の筆塚がある。虚子も松山の生まれで、尋常中学の同級生・河東碧梧桐の紹介で子規に俳句を教わった。子規の死後も「ホトトギス」を引き継ぎ俳壇の普及に努めた。

墓地には子規の埋髪塔がある。子規が亡くなった後の三回忌に遺髪の埋葬が行われ、埋髪塔が建立された。右の丸い輪の中に左向きの子規の横顔が彫られている。その左には内藤鳴雪の髭塚もあり、それらの後方に正岡家の墓がある。内藤鳴雪は子規門下の俳人で、「元日や一系の天子不二の山」など漢詩的情緒の句を作った。
手前のおにぎり型の歌碑は、与謝野晶子の歌碑である。
「子規居士と鳴雪翁の居たまへる 伊予の御寺の秋の夕暮れ」

墓地の手前左手に、高浜虚子の句碑がある。
「笹啼が 初音になりし 頃のこと」

その左手に水野広徳の歌碑がある。
「世にこびず人におもねらず我はわが 正しと思う道を途まむ」
賛助者には、駐米大使として第二次世界大戦の開戦直前まで日米交渉に従事した野村吉三郎、第46代総理大臣の片山哲らが名を連ねている。水野広徳は、松山生まれの軍人で海軍大佐にもなったが、第一次世界大戦後、私費で欧州の戦跡を訪ねて戦争の惨禍を痛感し、平和主義者に転じて反戦・平和論を説いた。
左のタヌキには「枯野原 汽車に化けたる 狸あり」と漱石の句がかかっている。

さらに左手に昭和3年松山生まれの堀内雄之の句碑もある。
「子規堂の 小窓開けあり 葉鶏頭」

子規堂正面には、通称「坊っちゃん列車」の客車も展示されている。この客車は、伊豫鉄道が創業当初の明治21年に松山−三津間に開通した日本最初の軽便鉄道の客車である。夏目漱石が松山での教師体験をもとに描かれた小説「坊っちゃん」の中で、「マッチ箱のような汽車」として登場しており、主人公の坊っちゃんが乗ったことから「坊っちゃん列車」と呼ばれるようになった。客車の前には漱石の胸像があり、客車の左に「子規と野球の碑」がある。
「打ちはづす球 キャッチャーの手に在りて ベースを人の行きがてにする」
「今やかの三つのベースに人満ちて そぞろに胸の打ち騒ぐかな」