半坪ビオトープの日記

萩八景遊覧船


萩の城下町を歩く前に、萩八景遊覧船に乗って、海・山・川に恵まれた水の都・萩の景観を水辺から眺めることにした。桜の開花時期のため延長して約1時間となる遊覧船のコースは、萩城跡横の指月橋をスタートし、萩疎水から橋本川に向かう。指月川とも呼ばれる萩疎水は、萩城の外堀のような位置にあるが外堀ではなく、大正15年(1926)に橋本川の水を迂回させて水害を防止するために造られた疎水である。

南西にある橋本川に出ると、対岸には観音院の伽藍、本堂と観音堂がひときわ大きく眺められる。観音院は古くより玉江観音と呼ばれ、海の護り観音として崇敬されてきた。幕末には志士たちが会合所として頻繁に利用、激論を交わしたという。指月山萩城を正面に凝視する絶景の地に建ち、秋の観月は特筆される。橋本川河口の「倉江の帰帆」とともに「玉江の秋月」として萩八景の一つに数えられる。
「遠島や浪もひとつにみどりなる 雲よりいでて帰るつり舟」倉江の帰帆
「江の水に移る影さへ白玉を みがくばかりの秋の夜の月」玉江の秋月  
観音院のすぐ東に架かる常盤橋をくぐり、松の木が茂る中洲の常盤島と橋本川右岸との間を抜けると幅広い橋本川本流に出る。過ぎ行く常盤島の右側には長い石垣が続く。

長い石垣と松林の向こうには、武家屋敷の口羽家住宅や追廻し筋の堀内鍵曲などがある。

対岸には玉江橋が見え、その向こうには面影山(253m)が控えている。双耳峰に見えるが左の山が面影山で、頂上には中世の砦跡の石垣が残っている。今は反射板が建っている。面影山の東(左)の麓には、毛利家の菩提寺・大照院が建っている。初代藩主毛利秀就及び2代から12代までの偶数代の藩主と夫人、殉職した藩士の墓と603基の灯籠がある。

平安橋の架かる新堀川や平安古松原を眺めながら玉江橋を過ぎると、左手に旧田中別邸の美しい白壁が見えてくる。この辺りが萩八景の「桜江の暮雪」と詠われる。
「白雪の夕の色はさくら花 江の波かけて散るかとぞ見る」桜江の暮雪
萩八景とは、貞享2年(1685)3代藩主毛利吉就が、お抱え絵師雲谷等璠、歌人安部春貞、学者山田原欽の3人に命じて、新しく萩城下の佳景を選ばせたものである。等璠には絵を描かせ、春貞には和歌を、原欽には詩を作らせ、萩八景である「八江萩」の図巻を作らせた。

ちょうど桜の開花時期だったので、左に大きく回り込み、橋本川の土手沿いの桜並木を船上から見渡すことができる。

珍しいミドリヨシノが見られる萩城跡指月公園とともに萩市の花見の名所として知られ、橋本川の右岸に桜並木が約2km続いている。この辺りの左岸、大聖院の近くが萩八景の「小松江の晩鐘」と詠われる。
「山の端も霞わたりて遠き江の 松より伝う入相の鐘」小松江の晩鐘 
萩八景はさらに上流の「中津江の夜雨」、「上津江の晴嵐」、松本川沿いの「下津江の落雁」、「鶴江の夕照」と続くが、遊覧船はそこまで廻らない。和歌は次の通り。
「更る夜の雨もふる江のしずが屋に 残るも細き灯火の影」中津江の夜雨
「山川の瀬々の朝霧たえだえに 江の浪見えて行嵐かな」上津江の晴嵐 
有明の入江の芦のほのぼのと あくる空より落つる雁がね」下津江の落雁
「鶴のいる入江の村の松原に 残る夕日の影ぞさやけき」鶴江の夕照 
花見が終わり、Uターンして橋本川を下ると、右手(北)奥に指月山(143m)が美しい姿を見せている。指月山の麓に国の史跡に指定されている萩城(指月城)跡がある。萩城は本丸・二の丸・三の丸の平城と、山頂の山城(詰丸)で構成されている。関ヶ原の戦いで西軍の総大将についた毛利輝元は、周防国長門国の2国に減封され、慶長9年に萩城を築いた。本丸は250年あまり長州藩の拠点であったが、明治7年に廃城令のため破却された。

萩疎水に入り船着場を通り過ぎると、日本海に出る直前に左手に萩城跡が見える。二の丸跡に復元された全長57mの銃眼土塀には、15の四角い銃眼が開けられている。「蓬生ふ銃眼の中海光る」と横光利一が詠んだ銃眼からは、きらめく日本海と笠山(112m)が見えるという。

萩城跡を左に見ているうちに、右手の岸壁の向こうに海と砂浜が見えてくる。菊ヶ浜海水浴場として知られる白砂青松の海岸である。
文久3年(1863)尊王攘夷を掲げる長州藩は、下関・関門海峡を通過する外国船に砲撃した。しかし翌年、四国連合艦隊アメリカ・イギリス・フランス・オランダ)の報復によって大きな被害を受けた。萩に残る人々も外国船の襲来に備えて、この菊ヶ浜に約2kmの土塁を築いた。築造には武士の妻や奥女中の功績が大きく、土塁は「女台場」と通称された。その際、萩女の心意気を唄ったのが「男なら」で、現在、山口県を代表する民謡となっている。

日本海に躍り出ると、正面(北)には半島先の笠山(112m)が見える。小さな火山で山頂には噴火口があり、約25000本のヤブツバキの群生林もある。さらに左の海上には、羽島、尾島、相島などの萩六島の一部が見えるが、これらも笠山と同じくほとんどが安山岩でできた溶岩台地である。約20万年前から数万年前にでき、新しい笠山は約1万年前にできたといわれている。