半坪ビオトープの日記

伊藤博文旧宅・別邸


松陰神社境内のすぐ南に伊藤博文旧宅・別邸がある。博文の旧宅は、木造茅葺き平屋建ての約29坪の小さな家で、典型的な下級武士の住宅である。萩藩の中間伊藤直右衛門の居宅であったが、安政元年(1854)に博文の父・林十蔵が伊藤家の養子となったため、一家をあげて居住した。博文が明治元年兵庫県知事に赴任するまでの本拠となった家でもある。

伊藤博文は、天保12年(1841)熊毛郡束荷村の農家に生まれた。幼名は利助、のち春輔、そして博文と改めた。木戸孝允の義弟・栗原良蔵の紹介で松下村塾に入り、「なかなか周旋家になりそうな」と吉田松陰の評価を得る。

品川御殿山の英国公使館焼き討ちをはじめ、尊攘運動に参加する。文久3年(1863)井上聞多(馨)らと英国に密航留学する。明治新政府では参与、兵庫県令などを歴任。明治4年(1871)条約改正のため岩倉使節団の一員として欧米各国を歴訪。帰朝後、参議、工部卿などの要職を経て、明治18年(1885)初代内閣総理大臣となる。

以後、4度内閣を組閣。日露戦争後、初代韓国総監となり、明治42年(1909)枢密院議長として満州訪問の途上、ハルビン駅頭で安重根に狙撃され、69歳でこの世を去った。
旧宅は外から見るだけなので、中に掲げられている写真は博文夫婦と両親だろうと推測する。

旧宅の右隣にある別邸は、明治40年伊藤博文東京府荏原郡大井村(現品川区)に建てた広大な別邸の一部を移築したものである。意匠に優れた往時の面影をよく残す一部の玄関、大広間、離れを解体し、当地へ移築した。

別邸の中は見学しなかったが入り口に「長州ファイブ」の説明があった。文久3年(1863)英国に密航留学した長州出身の五人の若者たち、伊藤博文(春輔)・井上馨(聞多)・山尾庸三・井上勝(野村弥吉)・遠藤謹助が長州ファイブといわれている。江戸時代初頭に日本人の海外渡航が禁じられて以来、国禁を破って密航した最初の5人である。長州藩重臣周布政之助は、欧米列強と渡り合うため行く末を若い5人に託した。伊藤博文は初代内閣総理大臣井上馨は初代外務大臣、山尾庸三は工部卿(工業の父)、井上勝は鉄道庁長官(鉄道の父)、遠藤謹助は造幣局長となり、5人ともそれぞれ日本の近代化に貢献した。

旧宅のすぐ左の広場には、萩焼で造られた伊藤博文の陶像が建っている。