半坪ビオトープの日記

常栄寺、雪舟庭


あらためて本堂への入り口から鐘楼門を振り返ってみると、門の左には庫裏があり、その手前に茶堂がある。

本堂南の南溟庭もよく見ると、手前の苔が枯れて土が剥き出しになっているのが残念である。

これは広島県安芸高田市吉田にあった毛利氏の居城「郡山城」の城下図の複製である。中に常栄寺や妙寿寺が描かれているという。江戸時代後期のものだが作者は不明である。

本堂の北側に雪舟庭があり、本堂からも眺めることができる。庭園は約900坪の広さで、東西北の三方の山林を借景に、水と石を美しく配した池泉回遊式庭園である。本堂と池泉の間が芝生の枯山水になっている。北側の山畔には連続した石組を配し、谷を掘り石橋を架し回遊路が巡り、北東部奥深くには滝石が組まれ、東は自然のままの山腹の景となっている。

この雪舟画像は、絹本墨画淡彩雪舟等楊像の写真であろう。常栄寺蔵の原画は、山口県有形文化財に指定されていて、縦が104.9cmある。原画の製作者雲谷等益は、雲谷派の祖雲谷等顔の次男で、毛利元就菩提寺洞春寺や京都大徳寺塔頭の障壁画も描いている。雪舟が没した86年後に生まれている。
雪舟備中国赤浜(岡山県総社市)の宝福寺での小僧時代、涙で鼠を描いた逸話で有名である。京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防に移った。遣明船に同乗して明に渡り、約2年間水墨画を学び、画聖と称せられるまでになった。帰国後、周防、豊後、石見で創作活動に従事し、十数年後に再び山口の雲谷庵に落ち着き、数々の水墨画の傑作を描き、87歳で没した。現存する作品の6点が国宝に指定されている。「雪舟」は号、諱(いみな)は「等楊」である。

この屏風は群馬図屏風である。桃山時代から江戸時代初期にかけて、雪舟の画風を受け継ぎ発展させていった、雲谷派の画家により書かれたものと思われ、伝雪舟ともいわれるが、落款も不鮮明で年代、作者とも不詳である。

庭に使用されている石材は近くの山から運搬したといわれる輝岩である。本堂の裏に降りて、庭の右手の遊歩道を上がっていくと、15分ほどの奥山に毘沙門天が祀られている。坂の上から庭を眺めると、中央の無染池(心字池)の奥にも立石を多用した石組みが見られ、その奥にもいくつかある池から水が流れ入っている。

池中には四仙島と称される四つの島が浮かぶ。東池畔には仏石と呼ばれる霊象石と投形石を組み合わせた大石があり、西北側には十六羅漢と名付けられている岩組や、坐禅石と呼ばれる石がある。

南方の本堂正面には、中央に日本を象徴した富嶽と称する石を置き、前方には終南山、五台山、廬山、華山、衡山、百丈山などと呼ばれる中国の三山五嶽になぞらえた石組みがある。これは雪舟が中国大陸の風景から得た構想と伝えられている。