半坪ビオトープの日記

常栄寺、本堂


山口県庁の北東約3kmに常栄寺があり、山門手前に二蕉庵紫香の句碑が立っている。紫香は幕臣として江戸に生まれた漢方医であり、日露戦争の頃に山口に来住し、晩年をこの近くで過ごした。
「もみじして 落葉して呵々 朽ば哉」

常栄寺は、通称「雪舟庭」と呼ばれる庭園が有名で、国の史跡及び名勝に指定されている。山門もがっしりしている。

山門の左手に雪舟の半身像がある。雪舟は築庭もするが、水墨画を描く禅僧である。

山門をくぐって中に入ると、広い参道の先に「無隠」と呼ばれる前庭があり、境内に多くの伽藍が見渡せる。「無隠」は、常栄寺22世今井任桃老師の晋山(住職就任披露)記念事業として平成24年に作庭された。名前の由来は、室号の「無隠窟」からという。

すぐ左手には、地蔵堂が建っている。

境内の右手、地蔵堂の向かいに受付があり、受付のすぐ左に大きな鐘楼門が建っている。大正15年に常栄寺庭園が国の史跡・名勝に指定されたすぐ後に、民家の火事の類焼で鐘楼門と宝蔵を残してことごとく焼失したという。

鐘楼門をくぐって左手に本堂が建っているが、先の火事の後、昭和8年に再建されたものである。残りの諸堂は昭和27年、常栄寺20世安田天山老師の晋山後である。
常栄寺雪舟庭は大内政弘が別邸として建てたもので、庭は雪舟に命じて築庭させたといわれる。康正元年(1455)政弘の母の菩提を弔うために別邸を妙喜寺とした。一方、常栄寺は毛利元就が長男隆元の菩提を弔うために永禄6年(1563)高僧竺雲彗心を開山として、安芸(広島)吉田の郡山城内に建てられた。洞春寺も妙寿寺も同所に建てられた。毛利氏は関ヶ原の戦いで豊臣方に与したので領国を削られ萩に移封された。慶長年間(1596-1615)に常栄寺を国清寺に移し合寺し、洞春寺は萩に移り、妙寿寺は妙喜寺に移り合寺した。文久3年(1863)毛利敬親が本拠を萩から山口に移した時に、伽藍のみ洞春寺に譲り、常栄寺は現在地に移り妙寿寺と合寺した。変遷はややこしいが、寺の建物と庭の位置は変わっていない。

本尊の千手観音菩薩は、元々は山口市水の上町の国清寺(現・洞春寺)の本尊であった。

本堂の前面に囲われた南溟庭は、昭和43年安田天山老師が重森三玲に作庭を依頼した石庭である。雪舟入明し帰国するまでに往復した海をイメージしたものとされる。「南溟」の由来は、荘子内編第一「逍遥遊」からとったとされ、果てしなき南の海、悲願を望む光明の世界という。