半坪ビオトープの日記

湯田温泉、井上公園


津和野の南の野坂峠を越えると山口市に入る。山口市西部にある湯田温泉は、約800年の歴史を持つ温泉郷で、山陽地方随一の規模を誇る。温泉街の南に井上公園がある。

井上公園は、明治維新の功労者・井上馨の生家跡地に作られた公園で、旧宅「何遠亭」があったことからそう呼ばれる。中原中也の詩碑、種田山頭火の句碑などのほか、無料の足湯もある。
この手水鉢は古くから井上家にあり、その形から「龍尾の手水鉢」と呼ばれている。

この石碑は、漂白の自由律俳人種田山頭火の句碑である。種田山頭火は、山口市の東隣にある防府市の生まれで、昭和13年から翌年にかけ10ヶ月あまり湯田温泉に住んでいた。碑文は山頭火の自筆を写したものである。「ほろほろ酔うてこの葉ふる」

山頭火の句碑の左手奥に見えるのは瓢箪(ひょうたん)池で、大正6年(1917)にこの池泉を中心に庭園が造られた。池の周りには満開の桜の花が咲いている。

瓢箪池の右手の大きな石は、室町時代中期に大内氏の別邸「築山館」造営の時、豊後の大友氏から送られたものを、築庭の時ここに移された石である。その後、遠い豊後を恋しがり、雨の夜には泣くということから「夜泣き石」と呼ばれている。

手水鉢の手前に、湯田温泉出身の中原中也の詩碑が建っている。石は徳山産の黒御影である。詩句は友人の小林秀雄の手で書かれ、碑文は大岡昇平による。碑面の詩句は、詩集「山羊の歌」に収録されている「帰郷」の一節が刻まれている。
「これがわたしの古里だ さやかに風も吹いてゐる ・・・ あゝ おまへは何をして来たのだと 吹き来る風がわたしに云ふ。 中原中也

公園中央奥に、井上馨銅像が建っている。文久3年(1863)三条実美ら七卿が都落ちした時にここにあった井上邸を宿舎とし、各地から志士が集まったので部屋を増設し何遠亭と名付けた。翌元治元年、第一次長州征討に際して長州藩が国論を二分した時、馨は対立者に襲撃され重傷を負ったが、所郁太郎の大手術により一命をとりとめた。その後、高杉晋作奇兵隊に入隊し倒幕運動に加わった。長州ファイブの一人として伊藤博文などと共に欧州へ極秘留学し、明治維新後は外務大臣・大蔵大臣を務めた。
馨の銅像の右脇に、所郁太郎顕彰碑がある。所郁太郎は天保9年(1838)美濃国に生まれ、京都・大坂で医学・洋学を学び、長州藩の邸内医員となった。長州にも来住し、七卿西下に際し医員を命ぜられた。井上馨の袖解橋の遭難には直ちに馳せつけ瀕死の馨を奇跡的に救った。

井上馨銅像の右手には、大きな七卿の碑が建っている。幕末、長州藩は勤皇の公卿たちと連絡して、尊皇攘夷の先鋒となって働いた。幕府は、長州に政権を奪う野心があるとして、長州藩士とそれに同調する三条実美ら七人の公卿に、文久3年退京を命じた。これが七卿落で、藩主毛利敬親はこれを迎えて井上家に住まわせた。七卿らの志はやがて実現し、明治維新後、三条らはその中枢で活躍した。この碑は七卿を記念するために、大正15年に建立された。