半坪ビオトープの日記

鴎外記念館・旧宅、西周旧居


津和野の町の南、津和野川沿いに森鴎外記念館がある。平成7年に竣工した鉄筋コンクリート造二階建で、映像や写真パネル、鴎外の遺品や直筆原稿などの資料を展示している。

記念館の庭に鴎外の胸像がある。鴎外は西周の遠い親戚にあたり、故郷津和野の森林太郎の英才が伝わると、西周は鴎外を東京に呼び寄せ英才教育を施した。その結果、鴎外は東大医学部に進み、卒業後は軍医の道を歩んだ。明治17年(1884)から21年までのドイツ留学は鴎外の見識を広めることになった。

記念館の庭に隣接して、鴎外の旧宅が建っているが、屋敷の裏手になる。

森家は代々津和野藩の藩医で、50石どりの家柄であった。鴎外は文久2年(1862)この家で生まれ、明治5年(1872)11歳で上京するまでここで過ごした。鴎外がこの旧宅に住んだのはわずか11年で、その後再び津和野もこの家も訪れることはなかった。住んでいた当時の様子は、作品「ヰタ・セクスアリス」の中に「このへんは屋敷町で、春になっても柳も見えねば桜も見えない」と描かれている。

この旧宅は森家の上京後人手に渡り、一時は他所に移築されていたが、昭和29年の鴎外33回忌にあたり、津和野町がこれを買い戻し現在地に復元した。建築以来130年と老朽化が著しかったため、昭和59年に解体・修理された。鴎外の小さな勉強部屋や森家の藩医としての調剤室などがあり、外から見学できる。掲げられている写真は、右から鴎外、母・ミネ、父・静男である。

前庭の左の一隅に、鴎外詩碑がある。鴎外の日露戦争従軍詩歌集「うた日記」の中の詩・「扣鈕(ぼたん)」が佐藤春夫の筆で刻まれている。
「・・・ こがね髪ゆらぎし少女 はや老いにけん 死にもやしけん はたとせの身のうきしづみ ・・・」

記念館のある裏側から屋敷内に入ってきたが、こちらが鴎外旧宅の正面である。木造平屋建て、瓦葺の簡素な造りである。国の史跡に指定されている。

さらに門の外から屋敷を眺めてみる。鴎外は8歳で藩校養老館に入学して主に漢籍を学び、廃藩置県で養老館が廃校になると、父と共に東京へ移った。その当時は茅葺きであったという。

記念館の中から、津和野川の向こうに、西周(あまね)旧居が見える。安政元年(1854)再建の茅葺きの母屋と、周の勉強部屋があったという土蔵はともに史跡に指定されている。

西周は文政12年(1829)津和野藩典医・西時義の子として生まれた。藩校養老館で学んだ後、江戸に出て洋学に専念し、文久2年(1862)には幕命によりオランダへ留学した。帰国後は将軍慶喜の政治顧問を務め、維新後は陸軍・文部・内務省の官僚を歴任。山県有朋のもとで明治憲法の草案作成に関わるなど多方面で活躍した。「哲学」「理性」「科学」「芸術」「技術」など多くの翻訳語を創出した啓蒙思想家としても知られる。