半坪ビオトープの日記

福泉寺、首大仏


五所神社から温泉街に向かってすぐ左に折れ、千歳川を渡った熱海市側に曹洞宗の福泉寺がある。首大仏で有名だが、正面右手にある本堂と裏手の庫裏も今時珍しい茅葺きで十分趣がある。

元は走湯山東明寺の末寺であったが、享禄5年(1532)に保善院の四世帰雲元守禅師により再興された。本堂は築500年以上といわれ、2007年に屋根を葺き替えたばかりである。

扁額には青谷山と山号が書かれ、虹梁上の2頭の龍が向き合う彩色された彫刻も迫力がある。

境内正面には大きな首大仏がこちらを向いていて、目が合ってギョッとする。

高さが2m以上はある大きさの釈迦牟尼像で、首から上は珍しい陶器製だが、肩から下はコンクリート製の台座である。手前には金属製の仁王像が睨みを利かせている。

造られたのは寛文元年(1661)尾張藩の徳川家二代当主・徳川光友が母の供養のために名古屋城内に建立したもので、当時は胴体もあったという。徳川光友の母については、次のような伝説がある。その母は町娘で、耳の遠い母が行水をしている所に鷹狩りから帰った初代藩主直義が出くわし、失礼になってはいけないとタライごと抱えて家の中に運んだという出来事があり、それに感激した義直が御殿奉公を命じ、光友を産んだという。しかも出産の折、身分の低いものが藩主のご子息を股から産むのは失礼と腹を切って出産し、本人は絶命したという。それを知った光友が母を偲んでこの大仏を造らせたという。しかしこれはあくまでも伝説で、実際には側室の母・お尉の方(法名歓喜院)は、寛永11年(1634)光友が9歳の時に江戸で亡くなったそうだ。

大仏像は、初代藩主徳川直義が招いていた陳元贇という明代末期の作陶家により、瀬戸の土を用いて製作された。陳元贇は他にも、光友が母の菩提のために建立した大森寺(現、守山区)の陶製仏像も手がけている。

戦後、信者から福泉寺に寄進されたそうだが、その時には首から下はなくなっていたという。境内には他にもいろいろな仏像が安置されている。

寺入り口の石段左側には鬼子母神が祀られている。

鬼子母神は子授け・安産・子育ての神として庶民に広く信仰されている。また法華経の守護神として日蓮宗法華宗の寺院で祀られることも多い。