半坪ビオトープの日記

佐奈田霊社


2月上旬に神奈川県の真鶴から湯河原を巡った。行きがけに小田原の石橋山古戦場の手前にある佐奈田霊社に立ち寄った。東海道線をくぐり抜けて急なミカン畑の間を進むと、佐奈田霊社の社号標が立っている。南無阿弥陀如来の旗がたくさんなびいている。

境内に上ると右手に社殿が建っている。治承4年(1180)高倉宮以仁王平氏追討の令旨を掲げて伊豆で挙兵した源頼朝は、300余騎で鎌倉へ向かう途中の石橋山で、前方を平氏大庭景親の軍勢3000余騎に、後方を伊東祐親の300騎に挟まれ大苦戦となった。その石橋山の合戦で、頼朝方の佐奈田与一義忠は敵将の俣野五郎景久を組み伏せたが、与一の刀は血糊がこびりついて抜けず、その間に五郎の加勢に駆けつけた長尾新六定景に討ち取られてしまった。その与一の遺骸を葬ったのが与一塚で、その傍に佐奈田霊社が建てられた。(俣野景久は大庭景親の弟であり、長尾定景は後に実朝を暗殺した公暁を討ち取ることとなる。)
この佐奈田霊社は、与一が景久と組討ち中、味方からの問いかけに対し「たん」が絡んで声が出ず、そうこうしているうちに敵に討たれてしまったという伝承にちなんで、たん・咳・喘息・声に霊験があると信仰され、芸能関係者の参詣も多い。社殿の右手前にある木遣塚も、張りのある声が命の木遣節を謳う鳶職等が奉納したものである。

佐奈田霊社というが、本堂では阿弥陀如来が安置されているお寺であり、住職が守っている。本堂の中には古戦場から発掘された刀やつぶて石などが奉納され、のど飴も売られている。

観音堂の周りには新築記念の奉納額がたくさん掲げられている。旧観音堂は本堂を移築したものだったという。

観音堂の虹梁上の彫刻はかなり精巧に掘られている。とりわけ龍に観音様が向き合う構図は珍しい。

観音堂の左手には佐奈田与一義忠の手附石という手形のついた石がある。

吾妻鏡」には、建久元年(1190)頼朝は伊豆山権現参詣の帰り、佐奈田与一と文三家康の墓を訪れ落涙したと記されているので、戦死後まもなくこの与一塚が築かれたようだ。その後、与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られた。与一塚という石碑は、県の指定史跡になった記念のものであろう。塚には大きな御神木が植えられている。

与一塚の右手には、観音様や地蔵菩薩、奉納塚などが集められている。狛犬は阿吽ともに子連れで、右の阿は授乳しているようで微笑ましい。

辺りのミカン畑一帯の小さな谷間が、佐奈田与一が俣野五郎と組討ちして討ち死にしたところで、与一が俣野を組み伏せた畑の作物は皆ねじれてしまうことからネジリ畑といわれる。
近くの丘には、与一の死後、敵の中に斬り込んで討ち死にした与一の家臣・文三家康を祀る文三堂があり、石橋山の激戦を今に伝えている。

ミカン畑には「サルにエサを与えないで」という看板を見かけるが、帰りがけの道路脇で猿がゆうゆうとミカンをかじっていた。