半坪ビオトープの日記

仁右衛門島、頼朝隠れ岩


島の裏側(北、東)が開けて展望所となっている。正面の街並みが鴨川市街地で、その右手に弁天島がある。さらに右手奥の山並みの最高所が清澄山(377m)である。

大きな岩に注連縄が張ってあるが、これは神楽岩と呼ばれ、日蓮上人が旭を拝んだ所といわれる。

日蓮は、鴨川市の天津小湊で漁夫の子として生まれ、清澄寺比叡山高野山などで修行の後、清澄寺に戻り日蓮宗を開宗した。青年時代に清澄寺で修行中に仁右衛門島に来たとされる。その後、建長5年(1253)平野家は天台宗から法華宗に改宗し、菩提寺も小松原鏡忍寺にしたという。

神楽岩の眼下には、大磯に打ち寄せる大波がくだけ散り、泡吹き渦巻く様子が見える。

眼を南東に向けると、仁右衛門島の先にも大きな岩や小さな島がいくつも入り乱れて断続しているのが見える。遊歩道の右手の崖下には赤い鳥居が垣間見える。

まもなく遊歩道脇に、大正生まれの俳人、小枝秀穂女の句碑がある。
曼荼羅の 海をはるかに 髪洗ふ  秀穂女

崖下の赤い鳥居脇には源頼朝隠れ穴、正一位稲荷大明神、馬蹄石などの案内表示がある。

治承4年(1180)挙兵した源頼朝が箱根・石橋山の戦いに敗れて、船に乗って房総・安房に逃れたが、貝渚にて止宿しているところを長狭六郎常伴に夜襲されたという。そこでこの島に住む仁右衛門の導きで、夜襲を避けてこの洞窟に身を潜めたという。その後、頼朝が鎌倉幕府を開くと、この危機を救ってくれたお礼にと、平野の姓と近辺の漁業権を平野氏に与えたといわれる。
頼朝隠れ穴の中には、天明3年(1783)本宮伏見稲荷から勧請した、正一位福女稲荷大明神が祀られている。
稲荷大明神の入り口右手に馬蹄石がある。この馬蹄石にも次のような伝説がある。頼朝が太夫崎(現鴨川市江見)に来た際、たまたま岩に馬の蹄の跡(馬蹄石)を見つけた。この近くに良い馬がいるのではないかと捜したところ、近くの洞穴で黒い毛並みの立派な馬を見つけ、地名から「太夫黒」と名付け、後に磨墨(するすみ)と呼ばれる頼朝の乗馬となったという。

しかし、この頼朝隠れ穴の伝承は資料に乏しく、平野家は江戸時代に和泉の国から太海の地にやってきたという資料が別にあるため、あくまでも伝説とされる。

頼朝隠れ穴の先には、仁右衛門島の四季を詠んだ、水原秋桜子の大きな句碑がある。
巌毎に怒濤をあけぬ春の海
虹立つや雨雲ひくき波の列
鶺鴒も千鳥も飛ふよ初あらし
冬凪きて岩壁映ゆる夕焼雲

その先には見晴らし台があり、とんび岩や屏風岩を見渡せる。その眺めに向かうように、千葉県出身の特攻隊員だった、小出秋光の句碑がある。
暖かし わた津みに降る ものヽ声  秋光

ようやく仁右衛門島の島巡りも終えて船で戻る。太海の海岸の大磯にはカモメもたくさん羽を休めている。