半坪ビオトープの日記

大山阿夫利神社下社


ケーブルカーの終点・阿夫利神社駅で降りた後、下から上がってくる参道に合流して進むとまもなく大きな石段となる。

石段の途中から左脇を眺めると、真っ赤に紅葉したモミジが眩しいほど鮮やかである。

石段を上りつめると、金属製の鳥居の奥に大山阿夫利神社下社の拝殿が見える。
大山阿夫利神社は、大山(別名:雨降山)にある神社で「阿武利」とも表記し、「あぶり」とも読む。本社に大山祇大神、摂社奥社に大雷神、前社に高龗神(たかおかみのかみ)を祀る。大山祇大神は山の神・水の神として、また酒造の神として信仰され、大雷神は火災・盗難よけの神として信仰され、高龗神は水神で祈雨・止雨の神として信仰される。ただし、これらは明治になって神仏分離の時から祀られるようになったもので、江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神である石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)が祀られ、奥社には大天狗、前社には小天狗が祀られていた。

社伝では崇神天皇の御代の創建とされる。海抜1251mの山頂からは祭祀に使われたと思われる縄文土器や土師器・須恵器などが出土し、古来より原始的な信仰があったと考えられている。延喜式神名帳では「阿夫利神社」と記載され小社に列している。天平勝宝7年(755)良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。中世以降、大山寺を拠点とする修験道が盛んになり、源頼朝をはじめ北条氏、徳川氏など武家の崇敬を受けた。江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した。

大山詣は6月27日〜7月17日までの期間の女人禁制の参詣で、特に鳶や職人の間で人気があった。良弁滝と大滝で水垢離し、頂上の石尊大権現に登り、持ってきた木太刀を神前に納め、改めて授けられた木太刀を護符として持ち帰った。ほかにも一年の天候を占う筒粥神事、魔と穢れを祓う引目祭、山開き、火祭薪能などの神事があり、古い伝統をもつ大山固有の大山能、巫女舞、倭舞も残されている。

拝殿の右手に客殿まで建物が続いている。

拝殿手前左側には大きな獅子山がある。富士山の岩を用いて復興された5頭からなる大山獅子であり、周りには十二支も配されている。

獅子山の右手に、国学の祖・権田直助の座像がある。武蔵国入間郡の医師の子だった権田直助は、江戸末期に平田篤胤の門に入り国学を学んだ。とりわけ古社に伝えられてきた日本最古の漢方書である「神遺方」と日本唯一の古医方の医学書「大同類聚方」等の古典の研究に努めた。その後、京都に出て尊攘運動に参加、維新後は刑法官監察知事や皇漢医道御用掛などを歴任したが、明治4年には国事犯の嫌疑で幽閉された。幽閉から宥免された後、明治6年に大山阿夫利神社の祠官に命じられた。そこで権田直助は、神仏分離で混乱していた大山の社務整備、社殿創建、大山講の改革などに尽力し、春日大社から倭舞、巫女舞を伝えたりして、「大山近代の祖」ともいわれるようになった。

拝殿の左には小さな浅間社があり、その左に石碑がいくつかあって、さらに左に天満宮がある。亀戸天満宮から分祀された菅原道真を祀っている。天満宮の奥に大山登山口がある。頂上の本社へ参拝するための登拝門でもある。