半坪ビオトープの日記

元善光寺


下伊那地方は東西交通の要路として歴史を刻み、中心には小京都と呼ばれた城下町の飯田の街並みがある。室町時代に領主の坂西氏が城を築き、安土桃山時代には城下町の原型が出来上がり、以来、中馬街道の宿場としても栄えた。明治時代には日本画家の菱田春草、詩人の日夏耿之介を輩出し、民族学の祖・柳田國男のゆかりの地でもある。飯田城跡を中心に美術博物館など見所はたくさんあるが、今回は省略して市街地北部座光寺にある元善光寺だけ訪れた。

元善光寺は名前の通り、長野市善光寺の本尊が元々祀られていた寺で、以前は坐光寺と呼ばれていた。正式には天台宗定額山元善光寺といい、本尊は善光寺如来である。
寺伝によると、古くはこの地を麻績(おみ)の里と呼んだ。推古天皇10年(602)にこの地の住人・本多善光が難波の堀江(現、大阪市)で一光三尊(善光寺如来)の本尊を見つけて持ち帰り、麻績の里の自宅の臼の上に安置したところ、臼が燦然と光を放ったことからここを坐光寺としたとされる。その後、皇極天皇元年(642)勅命により本尊は芋井の里(現、長野市)へ遷座され、その寺が善光の名をとって善光寺と名付けられたことから、坐光寺元善光寺と呼ばれるようになった。遷座された本尊の代わりに勅命によって木彫りの本尊が残され、また「毎月半ば十五日間は必ずこの故里(飯田)に帰りきて衆生を化益せん」という仏勅(お告げ)が残されたことで、「善光寺元善光寺と両方にお参りしなければ片詣り」といわれている。
現在の本殿建物は、寛政9年(1797)の建立である。

本堂に入るとすぐ左手に座光寺丹後守像が安置されている。天正年代(1573~93)兵火によって焼失した本堂を再建した城主という。その脇の奥に宝物殿入り口がある。宝物殿から戻ると本堂の右手に出るが、すぐ戒壇めぐりの階段があり、真っ暗闇の中に降りていく。

宝物殿には雪舟作「寒山拾得」の絵や座光の臼、釈迦涅槃像など珍しい寺宝80余点が展示されているが、撮影禁止なのでパンフの切り抜きを載せる。中央に展示されているのは、地獄極楽絵図である。

これは元善光寺の霊宝とされる座光の臼である。開基伝承にあるように、本多善光が一光三尊の本尊を難波より持ち帰って安置した臼で、その時光明が輝いたので座光の臼といわれる。

こちらは江戸時代作の釈迦涅槃像である。木彫りの釈迦涅槃像は全国的にも珍しいといわれる。

本堂の左手には大きな客殿が建っている。

山門を潜って石段を上った右側に鐘楼が建っている。梵鐘は戦後の再鋳で、平和の鐘と呼ばれる。