半坪ビオトープの日記

横浜中華街、関帝廟


川崎大師参拝の後、昼食のため横浜中華街に向かった。横浜中華街は、約0.2平方キロのエリア内に500店以上の店舗があり、日本最大かつ東アジア最大の中華街となっている。みなとみらい線元町・中華街駅から中華街入口に出ると、鮮やかな青色の朝陽門が建っている。日の出を迎え、街全体に繁栄をもたらすとの意味があり、東門とも呼ばれる。清龍が守護神である。

南門シルクロードを南下し、テーマパークの横浜大世界の前で右に折れると関帝廟通りに入る。
入口に建つ門は天長門という。天のとこしえ(永久)なることを表す。

関帝廟の手前の香港路にある保昌という小さな店で食事をした。テレビにも取り上げられ、ネットでも牛バラカレーなどで人気のある店である。料理はどれも美味しかったのだが、皿が小さかったのでいく皿も注文することになった。

関帝廟は横浜中華街の中心だけあって、きらびやかに飾られていた。
中華街の歴史はかなり古い。安政6年(1859)に横浜が開港すると外国人居留地が造成され、欧米人とともに中国人も来住した。貿易商も来住し居留地の一角に関帝廟や中華会館などを建てていった。これが中華街の原型だが、まだ中華料理店は少なかった。関東大震災で欧米人の多くが帰国した後に、徐々に中華料理店も増えて中国人中心の街へと変わっていった。昭和30年(1955)に中華街大通り入口に牌楼門が建てられ、門の上に「中華街」と書かれたことで、それまで南京町と呼ばれていたこの街が次第に中華街と呼ばれるようになっていった。

関帝廟の始まりは、文久2年(1862)一人の中国人が関羽の木像を抱いて現在の地に小さな祠を開いたことによる。明治4年(1871)には華僑たちの募金で本格的な関帝廟が建立された。当時の華僑は1000人余りだった。その後、改築が加えられたが関東大震災で倒壊し、大正14年(1925)に二代関帝廟が再建された。昭和20年の横浜大空襲で焼失後、昭和22年に三代関帝廟が竣工したが昭和61年に火災で焼失した。平成2年に四代関帝廟が通りに面して建てられた。

関帝廟の主神・関聖帝君は、西暦160年前後の後漢三国時代にかけて活躍した実在の武将である。姓は關、名は羽、字は雲長という。後漢末期は悪政のため飢餓と貧困が蔓延し、黄巾賊の反乱が世の中を騒がせていた。乱世をただすため、関羽張飛劉備の三人は義兄弟の杯を交わし、義勇軍に参加し黄巾賊征伐に立ち上がった。関羽は武勇に長け、劉備に対する忠誠心も絶対で、常に弱い民衆の味方であったため、戦死した後も代々の朝廷から関帝として祀られ、民衆からも篤く崇拝され続けてきた。
天井には豪華な装飾が施されている。無形の「天」を具象化したものが「玉皇上帝」であり、万物の根源として位置づけられている。宇宙の創造者であり、絶対な支配者でもある。天空に住んでいるとされる玉皇上帝を拝むために、廟内の祭壇の前に天を仰ぎ見る天井を作っている。

関羽は武将として理財にも精通していたため、商人は「財神」すなわち商売繁盛の神としても信仰している。武将にとっても商人にとっても一番大切なものは信義・信用とされるからである。
柱でよく見えないが、関聖帝君の左手には地母娘娘が祀られている。地母娘娘は、中国の古代天地創造の神話に由来する神で、除災・健康など人間守護として篤く信仰されている。 

関聖帝君の右手には観音菩薩が祀られている。ほかにも福徳正神も右斜め後ろに祀られている。福徳正神とは、中国古代の原始的農耕社会から生まれた自然神の地神で、土地公とも呼ばれる。

関帝廟通りの出口には地久門が建っている。地のとこしえなることを表している。中華街には他にも延平門や玄武門、朱雀門などがあり、すべてで10基の門(牌楼)を数える。
帰りがけに矢向の志楽の湯にのんびりと浸かって、初詣を終えた。