半坪ビオトープの日記

信玄堤、三社神社


戦国時代、御勅使川は信玄橋から芦安へ向かう県道甲斐芦安線上を流れていて、地元では前御勅使川と呼ぶ。古くから暴れ川として有名で、大雨が降ると洪水を起こし、釜無川を押し出して甲府盆地中央部に大きな水害をもたらした。天保10年(1541)に国主となった武田信玄は、この御勅使川・釜無川の治水事業に着手したといわれる。「甲斐国志」(1814)には、信玄が駒場、有野に石積出を築いて御勅使川の流れを高岩のある北東へ向け、六科に将棋頭を築いて水勢を二つに分け、釜無川との合流地点に十六石を置いて御勅使川の流れを弱め、竜王に信玄堤を築いて甲府盆地中央部を守ったという。しかし、信玄堤以外は証拠資料がないため構築期は不明だとされる。

御勅使川が盆地に流れ出す扇頂部に設けられた堤防が、この石積出である。一番堤から五番堤まで残され、これは二番堤である。堤防の底は現在の地面の下はるか深くにある。

御勅使川の流れを上流の石積出で北へはね、その流れを二つの将棋頭で受け止め、次に河岸段丘を切り開いた堀切で御勅使川の洪水の流れを高岩へ導いて勢いを弱め、弱まった流れを信玄堤がしっかりと受け止めている。一般に信玄堤と呼ばれるのは、この竜王の堤を指す。天正11年に着工され、弘治3年(1557)に竣工したとされる。その後も幾度となく改修され、築堤当時の原形ははっきりしないが、日本の土木技術史でも一級の価値があるとされる。川沿いには三角形の聖牛が並んでいる。

聖牛とは、水流を弱めるために考案された古い河川工法の一つで、木材を三角に組み立て蛇籠に石を詰めて載せたものである。戦国時代の甲州が発祥の地といわれる。聖牛は大きさで「大聖牛」「中聖牛」「聖牛」の三つに分類されるが、復元展示されているこの聖牛は「中聖牛」である。

信玄堤のある土手の手前に、三社神社が建っている。神社の台輪鳥居の石鳥居は、室町時代後半(16世紀後半)のものと考えられていて、高さは296cm、幅は244cmである。

古来から水難場では堤防の安全を祈念する川除祭礼が行われているが、「甲斐国志」によれば、天長2年(825)に甲府盆地を中心に大水害が発生したことから、甲斐国一宮浅間神社、二宮美和神社、三宮玉諸神社が勧請されて三社神社が設置されたという。しかし、竜王河原宿は16世紀後半に形成されたので、その後と考えられている。御幸祭り(大御幸、三社御幸、おみゆきさん)は現在まで引き継がれて行われている。三社の御霊が竜王の地に集まり、信玄堤を練り歩き、三社神社において神事が執り行われる。その際、一宮浅間神社の祭神は木花開耶姫命なので、いつの頃からか神輿の担ぎ手は赤い長襦袢などで女性の格好をしなければならなくなったという。ちなみに二宮美和神社の祭神は大物主命であり、三宮玉諸神社の祭神は大国主命である。

拝殿の中を覗いてみると幣殿はなく、拝殿の中から本殿を拝む構造となっている。

三社神社の現在の本殿は建立棟札から、御旅殿の名で貞享3年(1686)に建立され、また改修棟札から宝永4年(1707)に三社大明神社として修造されていることが判明している。桁行3間、梁間2間の3間社流造で、一宮、二宮、三宮を祀るための規模を持ち、細部の装飾に意匠が凝らされ、屋根の構成も千鳥破風や軒唐破風を配し、破風の上に小さな屋根が付いて鬼面が設えられるなど華やかな外観となっている。屋根は昭和41年に檜皮葺から銅板葺に葺き替えられている。

拝殿の脇には、小さな石祠や地蔵菩薩と思われる石仏が安置されている。