半坪ビオトープの日記

猊鼻渓舟下り


日本百景の一つにも数えられる猊鼻渓は、高さ50mを超える石灰岩の岩壁がおよそ2kmにわたって続く渓谷で、明治以前は絶対の秘境として隠され、所在する長坂村でもその存在を知らぬ人が多かったと伝えられる。旧藩時代に、たまたま藩吏などが探勝に来る度に、いつも村民は多大の労力を強いられたので、村民はその負担に堪えかねて、風土記にも絵画図にも表さなかったという。
右手のあまよけの岩の次に現れる岩場は、古桃渓という。雨の後には滝のようになり、夏は涼しい風が吹き渡る。この陰には平泉藤原の落人が住まう30戸ほどの集落があって、砂鉄をとって暮らしていたといわれる。

天保5年(1834)関養軒の史跡吟詠で「東山大夫岩」と記されたのが猊鼻渓の初出とされ、猊鼻渓を最初に世に知らしめたのは佐藤猊巌とされる。佐藤猊巌は、父佐藤洞潭の志を継ぎ、猊鼻渓の開発を唱え、漢学者の岡鹿門、画家の蓑虫山人など文人を招き、私財を投じて開発し猊鼻渓を紹介した。
いよいよ渓谷も高さ100m余りの絶壁に奇岩怪石が屹立する幽谷に至る。左手に聳える絶壁は、錦壁岩という。

錦壁岩の次には、崖の途中から水が涌き出していて土色になっている大飛泉がある。

大飛泉の次には、まさに屏風のような屏風岩という絶壁が続く。

屏風岩の奥のずんぐりした岩は、馬鬣岩(ばりょういわ)という。岩壁の稜線が馬の首状を呈し、その上に連なる松の木が馬の鬣(たてがみ)のように見えることから名付けられた。

ようやく手漕ぎ舟は上流の船着き場、右側の三好ケ丘という砂州に到着する。砂礫で整備された道をおよそ200m進むと、げいび橋の向こうに大きな岩壁、大猊鼻岩が聳えている。

げいび橋の上から眺めると、大猊鼻岩の向かいの攬勝丘と呼ばれる砂州で見上げている人々が小さく見える。まさに猊鼻渓を代表する絶景の大岩壁であり、その高さは124mあるという。

大猊鼻岩の右下部に穴が空いていて、買い求めた素焼きの運玉をその穴に見事に投げ入れることができれば、願い事が叶うという。

大猊鼻岩のすぐ左手は、龍が潜むという潜龍潭がある。猊鼻渓に住む鯉が川を上り龍に昇華したという言い伝えがあるそうだ。

これが猊鼻渓の名前の由来となった獅子ヶ鼻である。浸食された鍾乳石が獅子の鼻に似ていることから名付けられた。猊とは獅子のことである。

大猊鼻岩の絶景を十分探勝した後、いよいよ帰り道となる。げいび橋の先の三好ケ丘の向こうにずんぐりした馬鬣岩が聳えている。こうして往復約1時間半の舟下りをゆったりと楽しむことができた。