半坪ビオトープの日記

角館武家屋敷、石黒家


台風が四国・中国地方を縦断し日本海に抜ける状況では、一日中雨模様である。秋田駒ヶ岳は諦めて、みちのくの小京都とも呼ばれる、角館の武家屋敷巡りに切り替えた。
その武家屋敷は南北に伸びているが、北端近くに平福記念美術館がある。日本画平福穂庵、百穂(ひゃくすい)親子の作品を中心に、小田野直武など角館ゆかりの作家の作品を収蔵・展示する。洋風の独特な建物は、国立能楽堂、法政大学などを設計した大江宏により設計され、昭和63年に建てられているが、平福親子の日本画武家屋敷とは趣を異にする。

重厚な武家屋敷で知られる角館の町は、元和6年(1620)角館地方を領していた芦名義勝によって造られた。現在の古城山(城跡)の南麓の小野崎家から1kmほど南に続く武家屋敷通り沿いに、黒い板塀が続き、シダレザクラやモミの大木が深い木立を形成し、江戸時代末期時の屋敷割や母屋・門・蔵の屋敷構え、枡形など武家町の特性をよく残している。
シダレザクラは総数約450本で、そのうち152本が国の天然記念物に指定されている。樹齢は250~300年で、寛文年間(1661~73)に京都から苗木が持参されたとの伝承がある。

ここは旧石黒(恵)家という。石黒家の分家で、昭和10年に建築されている。

こちらが石黒家である。明暦2年(1656)断絶した芦名氏に代わって角館所領として入部した佐竹北家の佐竹義隣に召抱えられた石黒勘左衛門直起を初代とする。当初の住居は今より西に所在し、家格は家老格の小野崎家(200石)に次ぐ150石取りで、財政を担当する用人として佐竹北家に仕えた。石黒家の薬医門には、文化6年(1809)の墨書銘の矢板があり、角館武家屋敷で年代確認できる最古の建物とされる。

家伝によれば、8代石黒隼人祐直信が嘉永6年(1853)に住居を現在地に移転したという。玄関は、上位または同格の身分を対象とする正玄関と、下位身分対象の脇玄関の二つがあり、正玄関には起り破風と懸魚を伴っている。

母屋は茅葺で、角館の武家屋敷の中では唯一、母屋の座敷に入って建物を主体に内部を見学できる。

欄間の亀の透し彫りなどには、心憎いばかりの技巧が施されている。陽が差し込むと影絵が壁に浮かぶ仕掛けである。

庭には築山や巨石が置かれるが池はなく、樹齢300年のモミの大木をはじめ各種の常緑樹やモミジなどの落葉樹があり、東屋を伴っている。

明治・大正年間に増築された蔵には、歴代の武具や甲冑、また秋田蘭画の大成者で「解体新書」の挿図を描いた角館出身の武士・小田野直武に関する古文書などが数多く展示されている。

季節によって雛人形五月人形、着物なども展示されるが、やはり極めつけは「解体新書」である。復刻版が展示されているが、初版本は別に保存されている。