半坪ビオトープの日記

三和神社、御霊神社


笠石神社のある国道294号線沿いには、古墳や横穴墓群がたくさん残されている。国道294号線の少し西側には、東山道駅路跡が推定されている。近くには那須官衙跡もあり、その南の那珂川町三輪に、三和神社がある。由緒書きによると、始め毛野国三輪山と称する当山の三つ又の槻木(現在のケヤキ)の大木を御神体として芽の輪を捧げて奉祀する。 

創建は推古天皇12年(604)といわれ、続日本後紀や三代実録にも記され、国史見在社でもある。

大和の大神(おおみわ)神社から勧請遷座されたと伝えられる。主祭神は大物主命を祀っている。

那須氏の祖とされる須藤貞信が、岩嶽丸退治の際、当社に祈願してその効があり、天養元年(1144)に拝殿を造営し、以後、那須氏代々が崇敬することとなった。那須氏は社殿の修理にあたったが、天正18年(1590)に那須資晴が改易となってからは、氏子が修造するようになったという。本殿は、切妻造平入り、棟持柱のある神明造である。

狐が守っている社は、もちろん稲荷社である。

三和神社の北東1kmほどのところに、那須与一の廟所として知られる御霊(ごりょう)神社がある。

那須与一宗隆は、下野国那須郡武家である那須氏初代太郎資孝の十一男として生まれ、源義経に仕えた弓の達人である。平家物語(第11巻)に登場し、屋島の戦いでの扇の的の話が有名である。扇の的を射る時に心から祈願した、八幡大菩薩にお礼のため石清水八幡宮に参詣の帰路、山城国伏見の即成院において急死しそこで葬られたが、分骨されて那珂川町恩田の地に葬られた。現在、御霊神社となっているが江戸時代は野州恩田社と呼ばれていた。

御霊神社の主祭神は、那須与一宗隆である。貞享年間(1684~88)に烏山藩主永井直敬によって社殿が修理され、元禄6年(1693)には直敬が那須与一追慕の意を銅製香炉に刻み、社前に奉納している。那須与一宗隆を偲ぶ弓道大会が、境内にある弓道場で毎年9月に催される。

雨が今にも降りそうな境内の、ツツジの葉にハグロトンボ(Calopteryx atrata)が止まっていた。本州、四国、九州及び東アジア、北米に広く分布する。ほかのトンボのように素早く飛翔することはなく、蝶のようにひらひらと舞うように羽ばたき、羽根を休めるとき黒い羽根を4枚重ねて閉じるのが特徴である。雄の腹部には緑色の金属光沢があるが、雌の腹部は黒褐色である。二羽お揃いだが、どちらも雄である。