半坪ビオトープの日記

笠石神社


7月中旬に栃木県の大田原、塩原、湯西川の史跡巡りに出かけた。一番のお目当ては大田原市の笠石神社で、早く着いたため先にほかを廻ったが、この神社から始める。
大田原市湯津上に鎮座する笠石神社は、那須国造碑(くにのみやつこのひ)があることで知られる。境内入口には神明造の石鳥居が建っている。

鳥居を潜って境内に入ると、参道右手に拝殿のような社殿があるが、ほとんど御参りする人はいないように見受けられる。

参道正面に本殿があるが、鍵がかかっているので、境内右手にある社務所でお願いし拝観料を払うと、資料を手渡され那須国造碑の紹介が始まる。

那須国造碑は、宮城県多賀城碑や群馬県の多胡碑と並び、日本三古碑の一つだが、その中でも最も古く、早くから国宝に指定されている。由来や碑文の説明が終わると、ようやく宮司が宝形造の本殿を開けて、中を見せてもらえる。

本殿の中に御神体である那須国造碑が安置されている。撮影禁止なのであらかじめ買い求めた絵はがきを載せる。那須国造碑は花崗岩製で、高さ120cm、幅は40cmほど。上に笠のような冠石(高さ30cm、幅48cm)を戴いていることから笠石神社と呼ばれる。碑文は19文字8行、計152文字で、六朝風の書体で書かれた槽・行書の文字は、書道史上からも貴重なものとされる。碑文の意味は以下の通り。永昌元年(689)那須国造の追大壱だった那須の直韋提(あたいいで)は、飛鳥浄御原宮持統天皇から評督(こおりのかみ)に任命された。文武4年(700)に死去したので、その子・意斯麻呂らは、父であり為政者であり広氏尊胤にして国家の棟梁である韋提への報恩のため、記念碑を建立した。永昌という元号は唐のものだが、日本の元号は686年に天武天皇崩御により701年の大宝まで停止されていたため、唐の元号を使用したとされる。
この碑で注目されるのは、「評」の文字であると宮司は強調する。以前、評から郡に移行したのがいつかという、古代史上で郡評論争という論争があり、今では移行が大宝元年(701)とされているが、那須国造碑文によって700年まで評が使用されていたことが確かとされる。
この碑は長らく草むらに埋もれていたが、延宝4年(1677)奥州岩城の僧・円順によって発見され、天保3年(1683)に水戸光圀に言上された。貞享4年(1687)光圀はその重要性を知るに至り、元禄4年(1691)堂を建てて碑を納めさせ、御神体として祀られたのが笠石神社の起源という。

境内左手にいくつか社や石祠があるが、手前の境内社は稲荷神社と思われる。