半坪ビオトープの日記

総持寺祖院、僧堂


法堂の左手に進むと、放光堂(納骨堂)が建っている。この堂宇は、安政年間に山形鶴岡の総穏寺本堂として建てられたが、総持寺移転に際して特別に献納された由緒があり、当時は大祖堂として中心的な役割を果たしていた。西面する3間堂で、軒唐破風付の入母屋造桟瓦葺である。

内部は奥行3間を外陣、その奥2間を内陣とし、背面に方1間の仏間を突出する。円窓や虹梁、出組、蟇股により装飾的な正面を構成する。

放光堂の左手には、700年の法燈を今に伝えるという伝燈院が建っている。手前には唐破風の門が構えている。

伝燈院は、開祖瑩山禅師の御霊を祀っている。元禄6年(1693)に再建されたもので、二度の災禍にも一部は焼失したがほとんど原形を留めている貴重な建物である。伝燈院の左奥に慈雲閣があるのだが、順路から外れていたため見逃してしまった。総持寺開基以前から伝わる観音堂で、行基菩薩の建立と伝えられる当院最古の建造物で、僧形観世音菩薩が秘仏として安置されているという。

法堂から伝燈院の下まで伸びている回廊、玄風廊を妙王殿の所で左に曲がると、僧堂に行き着く。間口20m、奥行14.55mと、かなり大きい建物である。昭和5年に再建されている。

書院風の火灯窓と白壁が見事に調和して、落着いた雰囲気を醸し出している。

中を覗いてみると、選佛場という額が掲げられ、坐禅という札が下げられ、正面には文殊菩薩が安置されている。禅寺として中心となる、自己修行の坐禅を行う場所で、坐禅堂ともいう。

僧堂の左手の回廊の角に、入る時に外から眺めた鐘鼓楼が建っている。

山門手前の右側に「峨山道ここより始まる」という案内板が立っている。峨山道とは、総持寺祖院から羽咋永光寺五老峰に至る約50kmの能登半島中央を貫く難路の古称である。当本山二祖峨山韶磧禅師は、本山の二祖と永光寺四代の住職を兼ね、毎朝早く永光寺の朝の勤行を勤めた後、この峨山道の難路を越えてここ総持寺に駆けつけ、総持寺の朝の勤行を勤めたと伝えられている。それ故、総持寺の朝の勤行は、粥了読経といって朝食後に勤めたという。峨山禅師の遺徳をしのび、永光寺から総持寺まで歩く峨山道巡行が昭和61年から毎年2回行われている。