半坪ビオトープの日記

総持寺祖院、仏殿


総持寺の住職は五哲が輪番で担当し、5ヶ所の子院(塔頭)の住職も輪番制で決められるなど、明治になるまで輪番制が続き、この輪番制により多くの末寺ができて、総持寺永平寺に並んで大本山になることができたといわれる。総持寺からは多くの優秀な僧侶が輩出し、京都、鎌倉五山の住職となり、永平寺の住職も出している。
山門をくぐって境内の中央から振り返ってみると、組物が豪壮で堂々とした建物であることがよくわかる。

境内中央から右に進むと、左手の池の向こうに大きな法堂が建っているのが見える。高さ25m、正面横幅36m、明治43年に竣工したが、平成19年の能登半島地震で損壊したため5年の歳月をかけ修復工事を施し、この後6月4日に落慶法要が営まれた。

なおも右手にはこれまた大きな仏殿が建っている。大正元年(1912)に再建された、間口20m、奥行16.3mの大きさがある、書院風仏堂で「大雄宝殿」とも呼ぶ。

総持寺祖院の巡拝順路は、山門に続く回廊に沿って反時計回りなので、山門右側の回廊、禅悦廊に入ると、内には五院の「洞川庵」の号額が掲げられている。宝暦13年(1763)奥州仙臺藩永徳寺24世楚山の書である。五院とは、普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵のことで、この五院の下に末寺があった。

回廊の突き当たりには、韋駄天尊が安置されている香積台があり、総持寺の総受付など運営中枢部なのだが、その手前の回廊途中に、四天王の一つ、南方を護る守護神、増長天像が安置されていた。

香積台の前で左に曲がると、大きな仏殿に入る。山門と同じく、山号「諸嶽山」の扁額が掲げられている。突き当たりには、五院の一つ「普蔵院」の号額が掲げられ、法堂へ続く慧心廊という廊下が見える。

仏殿中央の須弥壇上には、禅宗の本尊である釈迦牟尼如来坐像(木彫)を祀っている。その右手には、大権修理菩薩を配している。

釈迦牟尼如来の左手には、達磨大師を配している。欄間に施された彩色された花の浮彫りは珍しい。

左側の客殿を兼ねた相見の間の襖の書は、山岡鉄舟の作である。「鉄樹」「抽枝(枝をぬきんじ)」「石樹」「開花(花を開く)」と読む。山岡鉄舟は、勝海舟高橋泥舟(槍の達人)とともに幕末三舟といわれた一人であり、剣・禅・書の達人であった。勝海舟西郷隆盛江戸城開城など有名な会談の前談判を、勝の使者として駿府の敵陣にいた西郷と行い、成功裏に導いている。その後、西郷の人柄にも惚れて、事ある毎に西郷の護衛をしたという。