半坪ビオトープの日記

広島縮景園


最後に広島に戻り、余った時間で縮景園を訪れた。広島県立美術館に隣接しているので共通割引券で入ったが、美術館は広島にゆかりのある画家の作品が主なので、残念ながら余り興味は持てなかった。ただし、連絡通路近くに「厳島図屏風」があり、宮島の厳島神社周辺の様子が詳細に描かれていたのが印象に残った。

国の名勝・縮景園は、広島藩主浅野長晟(ながあきら)が入国した翌年の元和6年(1620)から別邸の庭として築成された回遊式庭園である。園内には、ウメやサクラ、ボタンやツツジなどの花が四季を通じて咲き、花見の茶会も四季折々に開催されている。

3月中旬とソメイヨシノの開花はまだだったが、早咲きで知られる河津桜の花が満開だった。園内には3本植えられているそうだ。

園の名称は、幾多の勝景を聚め縮めて表現したことによるが、また、中国杭州の西湖を模して縮景したとも伝えられている。真っ赤なボケの花も鮮やかに咲いている。

園の中央に大きな濯纓池を掘って大小10余の島を浮かべ、周辺に山を築き、渓谷、橋、茶室、四阿などが巧妙に配置されている。東池の畔に茅葺の四阿(あずまや)悠々亭が建っている。「縮景園之記」に「岸に添ひ池に浮かびてもの清う安らに建し」と記され、古くは納涼茶会や歌会などに使われていた。原爆投下で焼失したが、昭和43年(1968)に復元された。

作庭者は茶人として知られる家老の上田宗箇である。この種の回遊式庭園は、室町時代にその萌芽がみられ、江戸時代初期に最盛期を迎えた形式で諸大名の大庭園の多くはこれに属する。春を告げるミツマタの黄色い花も満開を少し過ぎたようだ。

池の中央に架けられた跨虹橋は、七代藩主重晟が京都の庭師清水七郎右衛門に天明3年(1783)と8年の二度も築き直させたものといわれ、東京小石川後楽園の円月橋や京都修学院離宮の千歳橋にも似た大胆奇抜な手法が駆使されている。

園内のいたる所に、2月から咲いていたと思われる梅の花が、まだ咲き誇っていた。

こちらの華やかに枝垂れている梅の花は、玉掛枝垂れという品種である。
この縮景園をもって、3月中旬に出かけた広島周辺の史跡巡りを終えた。