半坪ビオトープの日記

平和記念公園


原爆ドーム周辺とその南、元安川旧太田川に挟まれた中州の北部に、広島平和記念公園がある。原爆ドーム元安橋との間に、動員学徒慰霊塔が建っている。政府は労働力不足を補うため昭和19年8月に学徒動員令を発し、中学生以上の生徒は軍需工場等での勤労奉仕が強制され、防火地帯をつくる建物疎開作業にも動員された。被爆当日、市内で建物疎開作業を行っていた国民学校高等科以上の生徒約8,400人のうち約6,300人が犠牲となった。遺族の募金によって昭和42年(1967)にこの慰霊碑が建立された。

元安橋を渡ると正面右手に、原爆の子の像が建っている。原爆による白血病被爆10年後に死去した、佐々木禎子の同級生等による募金で昭和33年(1958)に建立された。頂上には折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、下の石碑脇には多くの千羽鶴が捧げられ、別称「千羽鶴の塔」とも呼ばれる。

原爆の子の像のすぐ南に、平和の灯(ともしび)、原爆戦没者慰霊碑、広島平和記念資料館が一直線に見渡せる。掌を広げた形の平和の灯は、丹下健三の設計のもと、平和の灯建設委員会により昭和39年(1964)建立された。反核恒久平和実現まで燃やし続けられている。火種は全国12宗派からの「宗教の火」、全国の工業地帯からの「産業の火」から集められた。その一つに宮島弥山の「消えずの霊火」も含まれる。
なお、原爆投下によって発生した「原爆の火」は、広島市内ではなく、福岡県八女市星野村に現在も保守されている。同村出身の兵役についていた男性が懐炉に遷し持ち帰ったことが始まりで、その後、星野村が「平和の火」として引き継いだ。現在、全国に分火されている平和の火は、広島「平和の灯」、長崎「ナガサキ誓いの火」、星野村「平和の火」の三つを集火することが慣例となっている。

原爆戦没者慰霊碑は、丹下健三の設計により昭和27年(1952)に建立された。原爆犠牲者の霊を雨露から守る趣旨から屋根が埴輪の形をしている。中央石室(石棺)には、国内外を問わず、亡くなった原爆被爆者全ての氏名を記帳した名簿が納められている。2011年8月6日現在で、総数27万5230人となっている。慰霊碑の石碑には、「安らかに眠ってください 過ちは 繰り返しませぬから」と刻まれている。この文は、自身も被爆者である雑賀忠義広島大学教授(当時)が撰文・揮毫したものである。この碑文の主語については、建立以前から議論があり、建立後すぐに慰霊碑を訪れたインド人法学者のラダ・ビノード・パール(極東国際軍事裁判の判事)は、前日の講演で「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」と、日本人が日本人に謝罪していると解釈して非難した。これに対し雑賀は、主語は「広島市民」であると同時に「全ての人々」(世界市民である人類全体)を意味すると講義などで述べている。現在は、主語は人類全体とするのが広島市の公式見解である。

原爆戦没者慰霊碑の左手(東)に平和祈念館が建っている。2002年に国立の施設としては初めて広島平和記念公園内に設置された。丹下健三の設計で、正式には国立広島原爆死没者追悼平和祈念館と呼ぶ。主に、原爆死没者の遺影や被爆者による体験記、証言映像を収蔵・公開している。

平和記念公園の正面に、広島平和記念資料館が横に長く建っている。広島原爆の惨状を後世に伝えるための施設として、当初は「広島平和会館原爆記念陳列館」の名で、丹下健三設計により昭和30年(1955)に開館した。現在は、重文に指定されたこの西館と東館からなり、東館から入場し西館から退出する。

東館には、原爆投下までの広島市の歴史や原爆投下の歴史的背景に関する展示と原爆ドームの模型があり、西館には、破壊された広島市街地の模型や、炎の中を逃げ惑う被爆者の等身大ジオラマ、黒焦げの弁当箱、動員学徒の遺品、人影の石など、原爆の放射線・熱線・爆風による人的・物的被害に関する展示がある。とりわけ、熱線で前身の皮膚を焼けただれさせながら逃げる等身大のジオラマ(通称:被爆再現人形)が、原爆の惨状を赤裸々に再現しているのだが、平和記念資料館ではこの等身大ジオラマ撤去計画を打ち出している。ほとんどの広島市民や多くの日本国民が反対しているジオラマ撤去計画だが、資料館運営側では計画変更の考えはないとしており、今後の対応が注目されている。

メインの平和記念資料館を見学した後、相生橋のある北に戻っていくと、原爆の子の像の左手(西)の木立の中に大きな土饅頭のような原爆供養塔が見えた。石本喜久治による設計で昭和30年(1955)に建立され、直径16m高さ3.5mの土盛りの頂点に石造の相輪の塔が据えられている。原爆投下により亡くなった引き取り手のない、身元不明の遺骨を供養している。

さらに北に進むと、平和の鐘が建っている。昭和39年(1964)原爆被災者広島悲願結晶の会により建立された。4本の柱で支えられたドーム型の屋根に重さ約1200kgの梵鐘が吊るされている。設計は香取正彦で、鐘の表面には国境のない世界地図が浮彫りにされ、撞座には原子力のマークが、その反対側には丸い鏡が表現されている。

平和の鐘のさらに北に、平和の時計塔が建っている。昭和42年(1967)大旗正二の設計による。原爆投下時刻とされる8時15分に毎朝チャイムを鳴らして「No more Hirosimas」をアピールしている。