半坪ビオトープの日記

岩国城、吉川資料館


宮島から岩国まで足をのばし、錦帯橋周辺を観て回った。錦帯橋に近づくと、北の彼方の横山の上に岩国城が見えた。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は領地を大幅に削減され、広島城から萩城に移封された。一族の吉川広家米子城から当地に3万石で封じられた。赴任後築城が開始され、慶長13年(1608)に横山城岩国城)が竣工した。しかし完成から7年後の元和元年(1615)に、幕府の一国一城令により廃城となった。その後、昭和37年(1962)に鉄筋コンクリート構造の復興天守が建てられた。

錦帯橋の北、岩国城の麓に岩国藩主吉川家の居館跡などを整備した吉香公園が広がっている。その公園の東側入口に佐々木小次郎銅像がある。同じ山口県の巌流島にある銅像と同じデザインである。吉川英治の小説「宮本武蔵」では、佐々木小次郎はこの岩国出身となっていることによる。後ろに見えるのはロープウェイの山頂駅である。公園から標高約200mの城山山頂まで3分で、展望は絶景という。そこから岩国城へも徒歩5分で行ける。

小次郎像の先に吉川資料館がある。資料館の正門に使用されている「昌明館付属屋長屋門」は、寛政5年(1793)に七代藩主吉川経倫の隠居所として建造され、瓦には独特な両袖瓦と平瓦が使用されている。両袖瓦とは、丸瓦、平瓦、丸瓦を一つにまとめた瓦で、17世紀中頃に岩国で考案されたと伝えられている。

建設当時の長屋は現在の2倍の長さがあり、門番部屋、駕篭部屋、土間部屋などがあった。
資料館には、青江為次の太刀で国宝の「狐ケ崎」をはじめ、初代藩主吉川広家画像や具足、吉川家に伝来した文書や吾妻鏡太平記などの歴史的資料がたくさん収蔵されている。

吉川資料館の前には長い堀があり、堀の手前側には吉香花菖蒲園があって、6月上旬には堀一面に花菖蒲が咲き乱れるという。

吉香公園に裏手から入ると、宇野千代の顕彰碑が建っていた。昭和期の女流作家で、代表作は「おはん」。碑には「幸福は幸福を呼ぶ」と記されている。見に行く時間はなかったが、錦帯橋下流臥龍橋の奥には、宇野千代生家が修復されて残っている。

吉香公園の中程に、岩国藩五家老の一つ、香川家の長屋門が建っている。元禄6年(1693)香川正恒が建立した長屋門で、当時の武家屋敷の構えをよく残している。設計・建設は、錦帯橋架替で頭領を務めた大工・大屋嘉左衛門が行った。

吉香公園の正面入口付近に、岩国の3代藩主・吉川広嘉の銅像が建っている。領主としての最大の治績は、延宝元年・2年(1673,74)と連年錦川に架橋工事を行い、現在の形の錦帯橋を架橋したことである。堅固な橋は以後、昭和25年(1950)のキジヤ台風で崩壊・流失するまで一度も流失しなかった。

広大な吉香公園には、ほかにも江戸時代中期に建てられた目加田家住宅や錦雲閣、吉香神社など、藩政時代をしのばせる建造物が点在している。また園内には季節の花が多く植えられており、梅、桜など花の名所となっている。