半坪ビオトープの日記

宮島、大鳥居


桟橋前の広場を神社に向って歩き始めるとすぐに、「厳島合戦跡」の表示がある。天文20年(1551)中国・九州地方に権勢を誇っていた大内義隆は、家臣陶晴賢の謀反により滅亡した。義隆と盟友の毛利元就は、2年後晴賢に対し挙兵したが、戦力的に優勢な陶軍に対し奇襲の一計を案じた。元就は弘治元年(1555)宮島の宮尾に城を築き、陶の2万余の大群をおびき寄せた。元就は3500の兵とともに暴風雨と夜陰に乗じ、東の入り江・包ヶ浦に上陸して山越えし、塔の岡にある陶軍本陣を急襲した。同時に大鳥居側の海から元就の三男・小早川隆景の軍と宮尾城の兵が呼応し、厳島神社周辺で激戦となり、不意を突かれた陶軍は壊滅した。晴賢は敗走するも山中で自刃した。厳島合戦に勝利した元就は厳島神社の再建に務め、中国地方統一の第一歩を踏み出した。

鹿がたむろする広場の終わりに日本三景碑や世界文化遺産記念碑があり、要害山の宮尾城跡登り口がある。海岸沿いに進むとすぐ左手に、地酒専門の宮島鉄鍋火屋本店がある。広島の地酒や焼酎がずらりと並んだ店内は思わず唾を飲み込む素敵な雰囲気で、ついつい地酒を買い求めてしまった。

左に曲がって表参道商店街に入ると、カキやアナゴ料理の店や、もみじ饅頭などの土産物屋がずらりと並んでいる。少し進むと右手に大きなしゃもじが横たわっている。杓子発祥の地という宮島のシンボルとして製作された世界一の大しゃもじで、長さ7.7m、最大幅2.7m、重さ2.5tもある。樹齢270年のケヤキ材でできている。

商店街を抜け出ると、石灯籠が並ぶ御笠浜となる。1800年代に整備された厳島神社の境内で、狛犬、石製大鳥居、総燈明(108基の石燈)がある。石製大鳥居は、高さ9.7mの御影石が使用され、発願から28年かけて明治38年に出来上がったものである。

石製大鳥居の左手には、五重塔と豊国神社が建つ小高い塔の岡の古い石垣があり、そこにアセビ(Pieris japonica)の花が咲き乱れていた。アセビ(馬酔木)は、本州以南の山地に自生する常緑低木で、有毒のため草食哺乳類は食べない。花は白色だが、園芸品種にピンクの花をつけるアケボノアセビなどがある。

宮島の参道沿いには鹿がかなりうろついている。かなり以前から島に住み着いている野生動物だが、観光地化に伴い観光客が与える餌に頼るようになり、町周辺に居着くようになった。餌をもらう癖がつくと、ビニールやプラスチック類を食べて胃袋に溜まり、かえって痩せて餓死するので、餌を与えないよう啓蒙している。

海上に聳え立つ朱塗りの大鳥居は、この御笠浜の先端を廻り込んだ辺りから見るのがよい。船で海上から参拝していた平清盛の造営時から8代目という。高さ16.6m、重さ約60tで、木造の鳥居としては国内最大級の規模を誇る。現在の両部鳥居は、明治8年(1875)の再建であり、扁額は有栖川宮熾仁親王の染筆で、沖側は「嚴嶋神社」、神社側は「伊都岐島神社」と記されている。

大鳥居は、厳島神社先端の灯籠・火焼前から約160m先に立つという。厳島神社の主要な社殿は、厳島(宮島)の北東部、大野瀬戸に面した有浦と呼ばれる湾の奥に建つ。仁安3年(1168)平清盛が、現在と同程度の規模の社殿を海上に造営した。瀬戸内海は潮の干満の差が大きいので、引き潮の時には砂浜が干上がり、歩いて大鳥居をくぐることができる。

いよいよ世界文化遺産に登録されている厳島神社に、切妻造りの入口から入る。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。見学は東から西へ一方通行となっている。