半坪ビオトープの日記

二本松菊人形


翌日、会津地方は朝から雨だったので、雨の降っていない二本松に向う。十月中旬は、ちょうど菊人形の祭典が始まったばかりだった。二本松駅の北の高台にある二本松城は、室町時代中期に奥州管領を命じられた畠山満泰が築造したが、天正14年(1586)に伊達政宗によって落城した。徳川時代初期には会津領として蒲生氏・加藤氏の居城となり、二本松藩が誕生した寛永20年(1643)に初代藩主丹羽光重が入城し、幕末まで丹羽氏の居城として続いた。二本松少年隊の悲劇で有名な戊辰戦争で、一夜にして焼失・落城した。
明治初期に廃城となり、戦後は霞ヶ城自然公園となった。

二本松には、藩政時代より菊の愛好者が多く、昭和の初期から町に菊人形が飾られていた。昭和30年から霞ヶ城公園で、絢爛豪華に開催されるようになった。平成25 年のテーマは「八重と二本松少年隊」であった。NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン、新島襄の妻となった八重の生涯をたどりながら、二本松少年隊も取り上げる構成である。
第一場面は、射撃の訓練をしていた二本松の少年達に、八重が手本を見せたところである。

次の場面は、兄覚馬にようやく砲術を教えてもらうことを許された八重の覚悟の様子である。菊人形は、木の枠、竹ひご、稲わらで作られた人形(胴殻)に、色の異なる菊花を「着せて」いく手の込んだ作業である。

次は、会津藩松平容保が、固辞し続けていた京都守護職に就任したところである。この意に沿わぬ就任こそ、後に朝敵の汚名を着せられるもとになった。

若松城に篭城した松平容保を援護しようと八重も入城したが、3万人を超える新政府軍に同盟諸藩は続々と降伏し、孤立無援の会津藩もついに白旗を掲げた。

会津戦争の3年後、八重は京都の兄覚馬を頼って移住し、西洋の知識を学ぶ。兄の知人の紹介で新島襄と知り合い、明治9年にキリスト教による結婚式を挙げた。

公園内の滝の廻りにも小菊の懸崖が飾られている。

次の場面は、12歳から17歳までの、二本松少年隊が結成されたところである。この後、二本松藩の主力部隊が出陣中で不在の時、少年隊は大壇口で新政府軍に応戦するも16名が戦死し、二本松城は一日で落城した。

菊人形の会場には、県大会の菊花もたくさん展示されていた。

最後に見たこの「千輪咲き」には驚いた。摘芯することで次々と枝分かれさせ、一本の茎から千余の花を咲かせる。前年の4月頃に栽培を開始、摘芯を繰り返しながら花芽を増やし、円形のドーム型に形を整えていく手間と根気のいる仕事である。