半坪ビオトープの日記

新宮熊野神社長床


喜多方市役所の西南、慶徳町新宮に新宮熊野神社がある。新宮と称しているが、本宮・新宮・那智熊野三山を祀っている。

新宮熊野神社は、社伝「新宮雑葉記」によれば、源頼義・義家父子が天喜3年(1055)「前九年の役」で陸奥征討に赴く際、武運を祈って紀州熊野から熊野堂村に勧請したのが始まりと伝えられている。その後、「後三年の役」で再びこの地を訪れた義家は、新宮に移すよう命じ、寛治3年(1089)に遷座・造営した。後年、本宮社、那智社も合祀された。

源頼朝が文治5年(1189)御家人佐原義連会津四郡を与えたことにより、社寺領は没収され衰退を余儀なくされた。建久3年(1192)神社の長吏が頼朝に請願し、再び200町歩の領田の印証とともに文殊菩薩像を賜った。建暦2年(1212)佐原時連が神社の北東に新宮城を築いて新宮氏を名乗り、新宮熊野神社を守護神として崇め、多くの神器を寄進し神社の保護に努めた。永享5年(1433)に新宮氏が芦名氏に滅ぼされると衰退していき、戦国時代には荒れ果ててしまった。
長床の建立年代は不明だが、形式・技法から平安時代末期から鎌倉時代初期には拝殿として建立されたと考えられている。長床の左手前にある大イチョウは、樹高30m、根元廻り8.1m、胸高の幹廻りは7.73mで、樹齢は約600年といわれ、新宮熊野神社の神木でもあり、喜多方市の天然記念物に指定されている。

慶長16年(1611)の会津地震で本殿以外、長床を含む全ての建物が倒壊したが、慶長19年(1614)蒲生忠郷が旧材を用いて一回り小さい長床を再建した。
昭和49年(1974)までの解体修理復元工事でかつての姿に復元された。

寄棟造、茅葺、間口27m、奥行12mの長方形で、直径1尺5寸(45.4cm)の円柱44本が10尺(3.03m)の間隔で10列×5列に並び、柱間はすべて吹き抜けで壁がない。

柱上には平三斗(ひらみつと)の組物が置かれ、中備(なかぞなえ)には間斗束(けんとづか)が用いられるなど純然たる和様建築であり、国の重文に指定されている。

長床中央の一番奥には、大根注連縄が張られ、その手前に神饌や神酒などを備えるための三方が設けられていて、本殿を拝むことができるようになっている。

境内の左端には鐘楼が建っている。梵鐘は、高さ128.9cm、口径79cmで、乳部に蓮華、下帯に唐草模様が刻まれている。貞和5年(1349)に新宮氏により寄進された、県内最古の梵鐘で、県の重文に指定されている。

鐘楼の奥、長床の左に旧文殊堂が建っている。以前はここに木像文殊菩薩騎獅像などの仏像が多く安置されていたようだが、今はほとんど宝物館にて展示されている。