半坪ビオトープの日記

延命地蔵、観音堂


参道右手奥に大きな延命地蔵菩薩が祀られている。天保3年(1832)米沢の豪商渡部伊右ェ門広繁が建立した。基礎及び台座は米沢の赤崩石、身体は上山の川流石で造られ、総高さ約5mの県南一の石像で、費用は450両といわれる。

笹野観音堂は、昔、坂上田村麻呂が斜平山(なでらやま)に千手千眼観世音菩薩を安置し、旅の僧が羽黒大権現を祀ったと伝えられている。さらに大同元年(806)に観音堂が建てられ、弘仁元年(810)に法相宗の名僧・徳一上人を開山一世として入仏供養が行われたと伝えられている。永享年中(1429~41)に宥日上人が観世音菩薩と羽黒大権現を秘仏とし、新たに千手千眼観世音菩薩を祀る。天正5年(1577)伊達政宗が開帳供養を行って以来、伊達氏・上杉氏の信仰篤く、現在の観音堂は、天保4年(1833)火災で焼失したものを天保14年に当時の藩主であった上杉斉憲が再建したものである。
歴代住職も久寿元年(1154)32世から現在の76世まで、途中に法音寺住職が兼務した35世分を含めると80代に亘って860年ほど連綿と記録され続けている。

茅葺屋根の総葺替えも明治28年、昭和58年に行われている。正面の軒唐破風の上に千鳥破風が設けられ、随所に彫刻も施されるなど社寺建築の技術の高さが認められる。彫刻も含めて絵図面などの資料が大工棟梁であった長井市寺泉渋谷嘉蔵家に残されていて、江戸時代末期の建築技術を窺うことができる貴重な建造物とされる。

軒唐破風下の一番手前の兎の毛通し(懸魚)の彫刻は、精巧に彫られた鳳凰である。その奥の太い虹梁上の彫刻は、躍動感あふれる大きな龍と2羽の鶴である。

長い虹梁の左右にも生き生きとした龍が彫られ、木鼻の唐獅子や獏の顔も迫力がある。

向拝内側の組物の間にもいろいろと彫刻が施されている。鰐口のすぐ上に見えるのは、竹に雀で、その上の彫刻は、鶴に乗る仙人・王子喬である。その左の彫刻は、亀に乗る黄安仙人と亀である。ここには見えていないが右には、鯉に乗る琴高仙人の彫刻がある。

中に入ると、内陣の欄間の彫刻では、金色の雲の合間に天女が舞っている。左の天女は鼓をたたき、右の天女は笛を奏でるが、中央には天女の顔に鳳凰の羽と足が見える。
本尊の千手千眼観世音菩薩と脇士の地蔵菩薩毘沙門天は、再建時に仏師横山権六昌興により刻まれた。総高さ153cmの本尊は、秘仏とされて宮殿の中に安置されている。脇士の左右には、真っ赤な愛染明王不動明王が座っている。右の脇間には、大聖歓喜天と諸尊が祀られている。壇中央に安置された小さな黒い円筒の厨子に、歓喜天が祀られている。後上段には再建前の観音堂の模型という小堂と弘法大師、興教大師、高戒上人像が祀られている。右には大黒天が立つ。大自在天の化身で軍神であり、また福の神でもある。文久2年(1862)に柳町の大藤利平が刻した歯を出して笑う神である。

左の脇間には、不動明王立像が祀られている。台座から火炎の先までの総高さは160cmである。その右には笹野山中腹に祀られる山の神のご神体が仮安置され、稲荷大明神の白狐もいる。左には十七堂祭の柴燈護摩本尊の不動像が祀られている。