半坪ビオトープの日記

弥彦神社、拝殿


東参道を進み、左から表参道が合流するところに手水舎があり、その先に東参道で三番目の鳥居があり、鬱蒼と茂る木々の奥に弥彦神社の社殿が見える。

鳥居をくぐると、参道のすぐ右手に舞殿がある。亀腹基壇の上に腰組付の高欄を回し、四方を吹き放ちとした舞台建築で、隣接する楽舎から突き出した橋掛廊下を付す。銅板葺の屋根は入母屋造だが、これのみ扇垂木とし他との違いを際立たせている。大正5年の建造である。

参道正面には、大きな随神門が構えている。重厚な唐破風屋根を持つ堂々とした造りで、昭和15年の建築である。左右に木造の武人が控えている。祭神に随行した印南鹿神の息子達という。

随神門は内側から見ても立派な建物で、左右に札所であろうか建物と廻廊が巡らされている。

正面の社殿も風格のある建物である。旧社殿は明治45 年に焼失したため大正5年(1916)に場所を変えて再建されたものである。創祀年代は不詳である。
弥彦神社は、神武天皇の命を受けて野積浜(現、長岡市寺泊)に上陸し、人々に製塩や漁労・農業技術を教えたといわれる、天照大神の曽孫天香山命が祭神である。
万葉集』には「伊夜比古おのれ神さび青雲のたなびく日すら小雨そぼ降る」「伊夜比古神の麓に今日らもか鹿の伏すらむ皮衣きて角つきながら」の2首が収載されている。式内社の伊夜比古神社に比定された国幣中社で、祭神の伊夜彦神は現在、天香山命とされているが、尾張国造家の祖神である天香山命が越後に祀られるのは不自然なため、大屋彦命や大彦命であるとする異説もある。

宮中同様に鎮魂祭を行うとして、石上神宮物部神社とともに有名であるが、当社の鎮魂祭は宮中での11月22日ではなく、4月1日と11月1日の年2回行われる。

重厚な拝殿の奥には大きな幣殿が続き、その奥に本殿が構えている。社殿の彼方後ろには、弥彦山(634m)が控え、山頂には御神廟(奥宮)が祀られている。

奥の本殿はよく見えないが、三間社流造である。

社殿を取り囲む玉垣の右側に鼓楼がある。瓦葺の鼓楼は、桁行梁間とも8尺、軒高16尺で、高欄付の縁を回し、箕甲付切妻屋根を架け、下部を袴腰とする。大正5年に建造され、昭和37年に現在地に移転した。現在も時を告げている。