半坪ビオトープの日記

恵信尼の墓


上越市新井駅から東に進むと、板倉区恵信尼寿塔と「ゑしんの里記念館」がある。親鸞の妻、恵信尼は晩年を板倉で暮らし、この地で亡くなった。ゑしんの里記念館は、恵信尼に関する資料を展示する施設として平成17年に開設された。

西本願寺蔵の「恵信尼文書」は、親鸞恵信尼の生涯を知る貴重な資料で、手紙の複製やその解説は興味深い。「恵信尼伝絵」は、恵信尼の伝記絵巻としてあらたに製作されたものだが、恵信尼の一生を分かりやすく描き出している。

当地方の豪族三善為教の娘として生まれた恵信尼は、承元元年(1207)に越後流罪となった親鸞と結婚し、男女6人の子を生んだ。越後・常陸国稲田(現、笠間市)・京都と、親鸞と生活を共にした。晩年は夫を末娘覚信尼に託して、4人の子供とともに越後に帰り、この地で87歳の生涯を閉じた。この「恵信尼像」はパンフの切り抜きである。

ゑしんの里記念館の敷地内にある建立記念碑の向こうには、浄土真宗本願寺派国府教区が一昨年建立したばかりの「恵信尼さま会館」が建っている。

恵信尼さま会館の正面には、親鸞の立像が建っている。

ゑしんの里記念館に隣接して、恵信尼寿塔がある。西本願寺蔵の「恵信尼文書」にある文永元年(1264)の手紙には、五重の石塔を注文し、横にこぶしの木を植えたと記載されている。付近に樹齢600年と推定されるこぶしの古株や「五りん田」「びくやしき」などの小字が残っていることから、西本願寺は昭和38年、この五輪塔恵信尼の寿塔と認め、恵信尼廟所として整備した。平成19年の親鸞配流800年にあわせ、平成17年に改修された。

寿塔とは、生前に建てておく塔婆のことをいう。この五輪塔は、高さ170cmで、鎌倉時代中期の作と推定されている。寿塔の左には、親鸞の筆になるといわれる南無阿弥陀仏の石碑が建っている。