半坪ビオトープの日記

倭文神社、本殿


ひっそりとした境内を進むと、堂々とした拝殿が構えている。
倭文神社の創建年代は不明であるが、伯耆国一宮である。文献上の初見は大同3年(808)の医学書「大同類聚方」とされる。延喜式神名帳(922)にも名が見え、天慶3年(940)には従三位から正三位に進んでいる。ちなみに延喜式神名帳には「倭文」を称する式内社が全国で13社を数え、近くにも伯耆国の倉吉や因幡国高草郡(鳥取市倭文)にもある。

平安時代、当社にも多くの神宮寺が建立されたが、戦国時代、当地を治めた武将に社領を没収され荒廃した。天文23年(1554)に尼子氏が社殿を再建した。その後、当地を治めた池田氏も崇敬し、鳥取藩主の祈願所となった。
大きな拝殿は、入母屋造銅板葺きである。

倭文神社は、古くから下照姫が安産の神として信仰を集めたことから、女性の守り神とされている。

本殿は、一間社流造銅板葺きである。
主祭神建葉槌命だが、相殿に下照姫命のほか、事代主命建御名方命少彦名命天稚彦命、味耜(あじすき)高彦根命を祀っている。天稚彦は下照姫の夫である。味耜高彦根命は下照姫の兄であり、天稚彦によく似ていて、天稚彦の死に際し天稚彦の親族に間違われて騒動が起きたという。味耜高彦根が怒って天に飛び帰った後に下照姫が詠った歌が古事記上巻にある。
天なるや弟棚機の項(うな)がせる 玉の御統(みすまる)御統に 穴玉はや み谷 二渡らす 阿遅志貴高彦根神ぞ (天上の織姫が首におかけになっている玉の首飾り。その首飾りの穴玉のように光っています。谷二つも輝き渡る阿遅志貴高彦根神よ) 
なお、「古今集仮名序」で和歌の起源について「世につたはることは、ひさかたの天にしては、下照姫にはじまり」といっているのは、この歌のことと考えられている。

現在の本殿は、文化15年(1818)に再建されたものである。
本殿向拝の下に見える海老虹梁の反りもかなり大きく、木鼻の鳳凰もたいへん珍しく嘴も目つきも鋭い。

本殿妻飾りの彫刻は、迫力ある装飾に富んでいる。

とりわけ虹梁大瓶束の両脇に流れる唐草や、虹梁下の斗栱や蟇股の意匠に工夫が見られる。右上に見える降懸魚の意匠も珍しい。
本殿の後ろには、かつて「乳神」と呼ばれる神木があったという。

本殿の脇には、小さな境内社があったが、詳細は分からない。