半坪ビオトープの日記

倭文神社、経塚


日本海近くの湯梨浜町東郷池畔にある羽合(はあい)温泉の対岸の山、御冠山の西麓に倭文(しどり)神社が鎮座している。

石段を上っていくと随神門の前に鳥居がある。享保12年(1727)建立の明神鳥居で、扁額には「伯耆一ノ宮倭文神社」と浮き彫りされている。

倭文神社のしどりとは、しづおりのつまったもので、しづは「日本古来の文様」、おりは織物である。しづおり→しづり→しどり→しとりと転じたと考えられている。倭文神社の読みには、しとり、しずりもある。
随神門には精巧な彫刻が施されている。

倭文神社の創祀の詳細は不明。機織りに携わった氏族である倭文氏が、祖神である「建葉槌命」を祀ったのが始まりという。建葉槌命とは日本書紀に登場する神である。経津主神武甕槌命が「葦原中国」の国津神を平定するのだが、星の神である「香香背男(かがせお)」だけは征服できなかった。二神は「倭文神建葉槌命」を遣わし、ようやく服従させたと記されている。
ただし、社伝には下照姫命に関するものが多く、大正時代までは下照姫命が主祭神であると考えられていた。
随神門の蟇股の文様も複雑に工夫され、木鼻の彫刻も表情が豊かである。牙のある木鼻は、頭が禿げていないので獏である。

社伝によれば、出雲から渡った大国主の娘・下照姫命が現在の湯梨浜町(旧羽合町)宇野に着船し、御冠山に登って現在地に鎮まり、安産の普及に努めたという。着船したと伝えられる場所には、下照姫命が化粧を直したという「化粧水」や、腰を掛けたという「お腰掛岩」などが残っている。元々は織物の神である建葉槌命を祀っていたのが、当地で織物が作られなくなって建葉槌命の存在が忘れられ、共に祀られていた下照姫命だけが残ったと考えられている。
随神門の彫刻は、今ではすっかり白木になっているが、建築当時はさぞや豪華に彩色されていたのではないかと想像される。

随神門の内側にも彫刻が施されている。

随神門をくぐると参道の右手に山中へ上る狭い道があり、国指定史跡「伯耆一宮経塚」の説明板がある。下照姫の墓と呼ばれていた直径15mの円墳状の経塚の石槨から、大正4年(1915)に青銅製の経筒をはじめ、2体の観音像、銅板に線刻された弥勒像、和鏡、瑠璃玉などが発掘された。金メッキされた鋳銅製の金銅仏は、屈指の傑作といわれる白鳳仏で、経筒はじめ多数の出土品全てが国宝に指定され東京国立博物館に寄託されている。経筒の銘文により、この経塚は、康和5年(1103)に僧・京尊が埋納したと分かった。