半坪ビオトープの日記

倉吉、白壁土蔵


倉吉の町は室町時代に打吹城の城下町として形成され、江戸時代には陣屋を中心に武家屋敷が設けられて、当時「町屋十八町」といわれた。その旧市街地が今では「倉吉市打吹玉川伝統的建造物群」という保存地区となっている。
倉吉白壁土蔵群・赤瓦観光コースの発着点は、倉吉市役所斜め前の「横綱琴櫻像」である。「猛牛」との異名を取った押し相撲の琴櫻=前佐渡ケ嶽親方は、倉吉市出身であり、その偉業を讃えて銅像が造られている。

倉吉白壁土蔵群・赤瓦散策観光コースのメインは、赤瓦三号館から赤瓦五号館までの玉川沿いであろう。五号館の手前で振り返ってみると、左に五号館、一号館の赤瓦が見え、玉川の右側に、白壁土蔵群と二号館の赤瓦が見える。

赤瓦一号館は大正時代に建てられた醤油の仕込み蔵を改装したもので、天井の梁と束柱を格子状に組み合わせた五重構造の小屋組も見応えがある。地酒を販売するいなしま酒店など地元のこだわりの店がいくつも並ぶ。ここは中野竹藝二号店。大正元年創業の中野竹藝は、伝統的な竹工芸品のほかモダンな創作作品も販売している。「丸竹加工」といわれる竹を曲げる技術が絶賛されている。

玉川に沿って上流、西に向うとすぐ右手に、浄土宗の法界山大蓮寺の山門がある。養老年間(717-23)に打吹山東隣の華到山麓の法界門に創建された大蓮寺が起源と伝わる。天正年間(1573-92)に善蓮社然誉上人文翁が近郊の3寺を統合し、自らを開山として現在地に伽藍を建立した。江戸時代建築の先代の本堂は昭和17年に解体され、昭和30年にモダンなコンクリート造の本堂が再建された。大坂の豪商淀屋清兵衛歴代の墓や武将脇屋義助所縁の寺として知られる。

大蓮寺から300mほど西に進んだところに、倉吉淀屋(旧牧田家住宅)がある。宝暦10年(1760)に建築された主屋は、間口7間、奥行8間半、切妻造平入二階建桟瓦葺きの建物で、倉吉の商家建物の中で最古の町屋建物である。大坂の豪商淀屋は、幕府や諸国大名に膨大な融資を行ったことが仇となって、5代目が闕所処分(大坂所払いの上、全財産没収)という憂き目に遭う。ところが4代目は、闕所処分の35年前に淀屋の大番頭を倉吉に送り込んで暖簾の再興を託していた。その人物こそ牧田家の初代仁右衛門である。闕所から58年後に4代目牧田五郎右衛門は大坂で「淀屋清兵衛」の暖簾を掲げた。その後、淀屋は代々清兵衛を名乗り、倉吉の牧田家は大坂淀屋の暖簾を守り抜いたのだった。

倉吉淀屋の少し手前を北に進むとすぐ、出雲大社倉吉分院の隣に大社湯がある。明治40年創業の鳥取県で一番古い公衆浴場で、国の有形文化財に登録されている。泉質は鉱泉といわれるが、泉質はともかく内装のタイルや浴槽の風情がよいとの声が多い。

玉川より一本南の本町通りに戻り、東に向うとすぐ右に、豊田家住宅がある。明治33年(1900)建築の主屋は、切妻造、桟瓦葺き、平入、木造二階建で倉吉の伝統的な町家形式で、国の有形文化財に登録されている。江戸時代中頃から呉服屋を営んでいた。

中庭を太鼓橋で渡り接続する離れは、昭和5年(1930)に建築され、造りは主屋と同じく、各所に上質の材を用い、昭和初期の熟達した和風の造詣を残している。

本町通りを東にさらに進むと左に、高田酒造が建っている。主屋は、天保14年(1843)に建築された造り酒屋で、格子や軒のデザイン、店の小屋組を生かした空間など、倉吉の町屋の特徴をよく表す造りとなっている。現在も「此君」の銘柄で酒造りを行い、試飲・酒造見学も人気がある。

打吹公園通りを右折し、臨時駐車場になっている聖徳小学校に向うとすぐ右手に、白壁の美しいふるさと工芸館がある。伝統手工芸である倉吉絣の実演が見学できるほか、のれん、鞄や陶磁器の販売もしている。