金門の上流は谷がやや広く、賽の河原という。新緑の先には、まだ雪渓がたくさん残る大山の険しい北壁が元谷の上に聳えている。
アップして一番左に見える峰が天狗ヶ峰(1710m)、正面に見える峰が剣ヶ峰(1729m)で、その右の弥山(1709m)は木に隠れて見えない。
再び参道に戻って進んでいくと二の鳥居が建っている。石造に見えるが、天明2年(1782)建造の銅製明神鳥居で、国の重文に指定されている。
銅鳥居をくぐると左手に本坊西楽院跡がある。大山寺は、慶長年間(1596-1615)以来、鳥取藩の中で一種の治外法権的な地域をなしていた。その大山領を治めていた政庁(役所)がここであった。大きな石垣と石階段が残り、往時の壮大な建物を偲ばせる。
参道の石段を上ると堂々とした神門が構えている。神門はもと本坊西楽院の門で、安政4年(1857)に寄進されたものである。前後両面に美しい唐破風をつけた四脚門だが、門の閂が外側についているので後向き門とか逆門と呼ばれる。
最後の石段を上り詰めると、大神山神社奥宮が見えてくる。大神山神社は、式内社、伯耆国二宮で、伯耆大山山麓の本社(米子市)と山腹(西伯郡大山町)の奥宮とがある。奥宮の本殿・幣殿・拝殿は、文化2年(1805)に再建された全国最大級の権現造で、国の重文に指定されている。
奥宮拝殿の左右には、50mの翼廊がひろがっている。
祭神として、本社は大穴牟遅神、奥宮は大己貴命を祀るとしている。どちらも大国主神の別名である。元は伯耆大山(別名 大神岳)の麓に鎮座し、その神を祀るものであった。伯耆大山は、平安時代には修験道場として著名な山となっていた。当社は智明権現と称し、地蔵菩薩を本地仏とした。元弘3年(1333)、隠岐を脱出した後醍醐天皇が当社で鎌倉幕府打倒の祈願を行った。
現在の奥宮は、山腹に大山山頂の遥拝所として設けられたものと伝えられる。
明治8年、神仏分離によって大山寺を廃し(後に再興)、山腹の智明権現の仏塔を廃して奥宮とした。幣殿にある白檀の漆塗りは日本一の規模を誇って美しく、拝殿の格天井の彩色画も見事であり、西日本最大級の神輿があるといわれる。
大きな門扉には、皇室の菊花紋によく似た、十六弁八重菊(三十二弁菊)が用いられている。
奥宮社殿の前では、桜が咲いていた。