半坪ビオトープの日記

誕生寺、祖師堂


境内左手の一角に日蓮聖人の幼像が建っている。善日麿12歳の稚児姿である。昭和10年京都の仏師瑞岑の作という。この幼少像も戦時供出されたが運良く溶かされずに、両国駅構内で発見されて、誕生寺に無事帰還したという。

幼少像の先には浄行菩薩が祀られている浄行堂がある。浄行菩薩とは、釈尊から末法の世の中に法華経を弘めることを命じられた4菩薩のひとつであり、浄行菩薩像を洗い浄めながら祈願することにより自らの煩悩も滅してもらうという。

誕生寺で最も大きな祖師堂は、天保13年(1842)に上棟し、弘化3年(1846)49代日闡上人により建立(落慶)された。入母屋造総欅造り、雨落ち18間4面(柱間は正面7間、側面6間)、高さは95尺とされる。

ブルーシートが架かって見えない向拝虹梁の龍とその上の懸魚の飛龍は、石川鉄五郎による彫刻である。
堂内の52本の欅の柱と用材は、江戸城改築用として伊達家の藩船が江戸へ運ぶ途中遭難したものを譲り受けたという。

鬼瓦は、畳21畳分、重さ約2.8トンあり、世界有数といわれる。
日蓮聖人像が安置されている御宮殿は、明治皇室大奥の寄進によるものであり、堂内右側の天井には南部藩の忠臣相馬大作筆による天女の絵が描かれている。平成3年の修復時に、この聖人像の胎内から多くの納入品が見つかり、貞治2年(1363)に造立された生身の尊像であることが明らかになった。つまり、最初から着物を着せるように造られていたのである。

ブルーシートの内側から見えた、向拝虹梁の彫刻もたいへん手が込んでいる。海老虹梁の大瓶束の両脇に広がる笈形の意匠も大胆で、先ほど見た清水寺のものより大掛かりな彫刻であった。

虹梁脇下の持送には、それぞれ違う鳥の様子が彫られているようだ。

祖師堂内は撮影禁止だが、大きな提灯のすぐ裏の欄間には、後藤三冶郎橘恒俊による龍の彫刻が見られた。

祖師堂の裏にある本師殿宝塔は、昭和63年の完成で、総高26m、塔体は印度砂岩の切石貼りである。内陣に総高3mの釈迦牟尼仏こと釈尊像を安置している。祖師堂の裏、道を隔てた裏手に本堂と客殿がある。