半坪ビオトープの日記

誕生寺、仁王門


鴨川市の東はずれ小湊に、日蓮宗大本山、小湊山誕生寺がある。建治2年(1276)日蓮(1222-82)の弟子の日家が日蓮の生家跡に、まだ存命中の日蓮聖人を開山に迎えて、高光山日蓮誕生寺として建立した。その後、二度の大地震、大津波に遭い、現在地に移転された。
総門の彫刻師は、埼玉県埼玉村の高橋幹冶とされる。

日蓮は、貞応元年(1222)安房国東条片海の漁師の子として生まれ、幼名を善日麿といい、12歳で清澄寺天台宗)にのぼり薬王丸と改名し、16歳で得度し是聖房蓮長と名乗った。さらに鎌倉・比叡山高野山で修行を積み、法華経こそが仏教の神髄であるとの信念を持ち、建長5年(1253)故郷の清澄山で日蓮宗を開宗した。清澄山を追放された後、鎌倉に入り「立正安国論」を著したが他宗から攻撃された。竜口の法難で処刑されかけたが結局は佐渡に流され、3年後に流罪を解かれて身延山に入った。そして弘安5年(1282)池上本門寺で波乱の生涯を閉じた。
近年整備された参道の両側には、新しく奉納された白い灯籠が多数並んでいる。

江戸時代、26代日孝が水戸光圀の外護を得て七堂伽藍を再興し、小湊山誕生寺と改称した。
仁王門は宝永3年(1706)の建立で、平成3年に大改修している。入母屋造二重門、間口8間、柱間は5間3戸。県内では最大級のものである。宝暦の大火の際焼け残った、誕生寺最古の建造物である。仁王門の初層の右手に建つ石塔は、蓮華譚涌現之塔という。蓮華譚の海中から発見された石碑を塔身に建立されたが、地震で二度も水没したかなり後に再び発見されたという。

両側の金剛力士(仁王)像は松崎法橋作、楼上の般若の面は左甚五郎作とされる。

仁王門の左手に、昭和58年に再建された誕生堂が建っている。堂内に日蓮上人幼像、妙日、妙蓮の両親像の一木三体の座像が安置されている。誕生堂の下には誕生水の井戸がある。本来の生誕地は、地震津波で今では海中に沈んでいるはずであるのだが。

仁王門をくぐり抜けた右手に鐘楼が建っている。梵鐘は戦時供出されたので、昭和24年に新たに鋳造されたものという。

参道の左手には、いくつか石碑があり、右の碑は「三須安五郎翁碑」と読めるが、詳細は不明である。

その先にもいくつか石碑や五輪塔があるが、詳細は不明である。