半坪ビオトープの日記

三囲神社


スカイツリー駅から線路沿いを隅田公園まで歩く。公園の裏手には、「二峯先生の碑」という大きな石碑が立っている。高林二峯は、上州出身の幕末から明治の書家で、古法帖を研究し独学で一家を成した。石碑上部の篆額は、勝安房とあり勝海舟の揮毫である。

隅田公園から牛嶋神社と三囲(みめぐり)神社は、去年の花見のときに歩いているので、できるだけ省略する。牛嶋神社といえば、拝殿直前の三輪鳥居が全国的に珍しい。明神鳥居の左右に袖鳥居を付けたもので、三つ鳥居とも呼ばれる。奈良県大神(おおみわ)神社が標準で有名だが、禁足地にあるため直接見ることはできないとされる。埼玉県秩父市三峯神社にもあるそうだが、かなり山奥なので、都内で見ることができるのはありがたい。

隅田川七福神めぐりのうち、大黒神恵比寿神が祀られている三囲神社は、三井家(三越)とゆかりが深く、三つ穴灯籠や三柱鳥居など珍しいものも多い。

三囲神社で最も古い石造物であるこの三つ穴灯籠は、宝永3年(1707)に奉納されている。この珍しい三つ穴灯籠は、香取神宮鹿島神宮三郷市の丹後神社など関東にしか存在しないといわれる。左の石碑は、山彦秀翁の碑である。幕末最後の江戸太夫といわれた、十寸見(ますみ)可慶(九代目河東)の子であり、十一代目河東を襲名した後、隠居して秀翁を名乗ったという。十寸見河東とは、江戸浄瑠璃の河東節の家元名である。

こちらは室井其角の雨乞いの句碑である。元禄6年(1693)は大変な干ばつで、秋の収穫を心配して困りきった小梅村の人々は三囲神社に集まり、鉦や太鼓を打ち雨乞いをしていた。ちょうど三囲神社に詣でた芭蕉の高弟、室井其角はこの有様を見て、能因法師などの雨乞いの故事にならい「遊ふた地や田を見めぐりの神ならば」と詠んだところ、翌日には雨が降ったという。

社殿の裏にある三柱鳥居は、原形が京都太秦木島神社にあるとされるように、蚕ノ社ともいう木嶋神社の鳥居が最も有名である。そのいわれについては、太秦の豪族、機織り出身の秦氏や関連の深い白山神社との関係も取りざたされている。三角鳥居とも呼ばれる。

三柱鳥居の左奥に大きな石碑が二つ並んでいる。右の「大日本少年俳優長、助高屋小伝次」とは、明治32年に16歳で急逝した、浅草座の子供芝居で一時代を築いた助高屋小伝次のことである。左の「沢村訥子」とは、初代沢村宗十郎の俳名であり、4代目助高屋高助の養子で、沢村訥子(とっし)7代目を襲名した浅草の看板役者だった。後ほど浅草寺にも行くが、三囲神社のある向島と対岸の浅草(今戸)は、沢村家などの俳優のゆかりの土地であったため、記念の石碑が多い。

牛嶋神社と三囲神社の中間に、すみだ郷土文化資料館がある。隅田川を中心として育まれた文化や、関東大震災東京大空襲などの歴史を紹介する常設に加え、東京スカイツリー開業記念の特別展示が、隅田川の情景―「花火」「絵巻」「橋と渡し」のテーマで開催されていた。最後の「橋と渡し」の展示を見たのだが、両国橋や竹屋の渡しの様子を浮世絵などで確かめられて興味深かった。