半坪ビオトープの日記

白河関跡、奥の細道碑


参道右手の中腹に加藤楸邨筆になる「奥の細道白川の関」の碑がある。
「心許なき日かず重るままに白川の関にかゝりて旅心定まりぬ。いかで都へと便求しも断也。中にもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれなり。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。
卯の花をかざしに関の晴着かな  曾良
芭蕉一行が白河に着いた元禄2年(1689)には、まだ松平定信白河関跡を比定(1800)していなかったので、11世紀頃に新しく陸羽街道が開かれた後、新しい関が置かれていた白坂峠にも寄った。古い関跡と言われたこの旗宿によった後も、異説のある関山にも寄るなど、せっかく「白河の関越えんと」と旅立ち、ようやく意気込んで奥州入りを果たした芭蕉も、かなりうろたえたに違いない。歌枕の地として古来より有名な白河関跡が特定できぬとあっては、旅心定まるどころではなかったと思われる。
しかし、短い文章に平兼盛能因法師源頼政、藤原季道、久我通光、竹田大夫国行、藤原清輔をさらりと詠み込む手腕は心憎い。

さらに林の中を上がっていくと右手に川柳碑があった。
関所から京へ昔の三千里  井上剣花坊
白河を名どころにして関の跡 大谷五花村  
昭和6年に白河川柳能因会が建立している。ちなみに、昭和4年没の井上は、山口県生まれの川柳作家。新川柳運動を提唱し近代川柳の基礎を作った。昭和33年没の大谷は、福島県五箇村(現白河市)生まれ。井上剣花坊に学び、白河町長・貴族院議員も勤めた。

社殿の右手の境内地には、関守居館跡や倉庫跡、空堀と土塁遺構を見ることができる。

神社裏手からは鍛冶場跡・住居跡が発掘されている。

白河神社の社殿の脇には、明治22年に古関村初代村長菊池甚四郎が建立した古歌碑が立っている。白河関に題材をとる平安時代の著名な和歌三首が選ばれている。
「便りあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと」
 平兼盛拾遺和歌集
「都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関
 能因法師(後拾遺和歌集
「秋風に草木の露をはらわせて 君が越ゆれば関守もなし」
 梶原景季吾妻鏡